アブドラ・オジャラン

読み:アブドラ・オジャラン
外語:Abdullah Ocalan
品詞:人名

クルド労働者党(PPK)の創設者。

彼は長らくシリア・アラブ共和国からPKKの指導を行なってきた。アメリカ合衆国寄りの姿勢を取るトルコ共和国と、社会主義のシリアでは相容れないものがあり、トルコ牽制のためにシリアは彼を匿って来た。だがトルコと反対側で国境を接するイスラエルが対シリア包囲網を強めるためにトルコと接近、そのためシリアはあまりトルコに対して強硬な施策を取れなくなり、結果彼は国外退去となった。

1998(平成10)年10月、シリアを出た彼はロシア、イタリア共和国を始めとして欧州各国に赴くが、亡命を受け入れてはくれなかった。その後手引きによりギリシャ共和国に偽の肩書きで入国するが、間も無くギリシャ当局にバレた。只でさえキプロス問題でトルコと揉めていた折、これ以上の問題を抱えたくなく、当局は彼をケニアのギリシャ大使館に移した。

ケニアに移ったものの新たな打開策は見出せず、彼は国際社会の場に出ることで同情を集めることを目的に、オランダの国際司法裁判所への出席を要望した。ギリシャ政府はケニア政府と相談の上でその要求を飲み、1999(平成11)年2月15日、彼を空港に連れて行くが、空港で彼を待ち構えていたのはトルコの治安要員の飛行機だった。ギリシャ政府は自らケニア政府に騙されたと主張しているが、そもそもアメリカの諜報部員のウロウロしているケニアに連れて行ったことや、直前にアテネのクルド人難民を山中に移動させていることなどから、グルであったとも言われている。

彼はトルコに移送後の1999(平成11)年11月、国家反逆罪などの罪で死刑判決を受けた。しかし、トルコのクルド人政策に批判的な欧州連合(EU)諸国は彼の死刑執行に良い顔をしなかった。EU加盟を長年の悲願とするトルコにとってはEU諸国の機嫌を損ねるのは得策ではなく、与党内では極右の民族主義者行動党(MHP)が早期の刑執行を求めたものの、ビュレント・エジェビト首相(民主左派党(DSP)党首)は執行の延期を決定。結局、2002(平成14)年10月5日には終身刑に減刑している。