ウサマ・ビン・ラディン

読み:ウサマ・ビン・ラディン
外語:Usāma bin Muhammad bin Awād bin Lādin アラビア語 , أسامة بن محمد بن عوض بن لادن アラビア語 , Usama bin Laden , Osama bin Laden
品詞:人名

国際テロ組織アルカイダの指導者の、日本での通称。正確には、ウサマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディン。

これを著している現時点では国際指名手配中であり、その首には米国によって2500万ドルの賞金が掛けられているが、今なおその行方は不明である。

イスラム暦1377(西暦1957〜1958、昭和32〜33)年、サウジアラビア王国の首都リヤドに生まれたとされる。但し、米国防総省のファクトシートによれば1955(昭和30)年頃生まれ。また出生地もジェッダとする説もある。

父親はサウジアラビアで最大のゼネコンであるビン・ラディン・グループ総帥のムハンマド・ビン・ラィデンである。

ムハンマドには10人以上の妻が居たが、ウサマを生んだのはムハンマドの妻としては唯一のパレスティナ人とされる女性(米NBCによる。AP通信によれば、シリア人奴隷)で、同腹の兄弟は居ないと言われている。

現在、ビン・ラディン・グループを率いているバルクとウサマに同調しているハーリド以外の兄弟についてはよく分かっておらず、ウサマも20数人の息子の内の一人(米国務省)、あるいは52人の息子の内の17番目(米ABC)、などと伝えている。

タリバンまで

1979(昭和54)年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、間も無くアラブ・アフガンとして参加することを決める。

父親はムジャヒディン(イスラム武装勢力)を支援し、寄付も与えていたので、これを家族は熱狂的に賛同している。

アフガン到着後は主に資金集めやその資金による支援設備建造などを行なっていた。しかしソ連軍が撤退した後、ムジャヒディン内部での対立が深まると幻滅し、1990(平成2)年にサウジアラビアに帰っている。

イラクがクウェートに侵攻すると、ウサマはクウェート防衛用の部隊の組織化を考えるも、国王がアメリカ軍を率いれたことにショックを感じ、以降王室を公然と批判するようになる。そのため、1994(平成6)年2月20日に一族から、同年4月6日には祖国サウジアラビアから追放される。

彼は1992(平成4)年よりスーダン共和国に居たが、1996(平成8)年スーダンにアメリカ合衆国とサウジアラビアより圧力がかかり、スーダンは彼に出国を要請した。ここで彼が頼ったのがアフガンのタリバンであった。

タリバン以降

1996(平成8)年8月、彼曰く「サウジアラビアを占領している」アメリカに対する最初のジハード宣言を行なう。

これ以降に起こった1998(平成10)年8月のケニア、タンザニアの米大使館爆破テロ事件、2000(平成12)年10月の米駆逐艦爆破テロ事件、2001(平成13)年9月11日の米同時多発テロ事件などの首謀者と見られている。

この米同時多発テロはアメリカ軍によるアフガニスタン攻撃を招き寄せる結果となり、結果として彼を匿っていたタリバン勢力は2001(平成13)年10月の以降急速に支配地域を減らして12月頭には壊滅した。

消息

しかし、彼の行方は依然として掴めていない。

空爆により死去した説、攻撃によって医療環境が悪化し持病が悪化して死去した説、海外逃亡説などが囁かれている。

しかしアルカイダは、時々ウサマが「出演」するメッセージビデオを公開している。現在でも生存しているのかどうかは、このビデオからだけでは判断できないが、これを著しているうち最新のものは2007(平成19)年9月7日に公開されたものである。