読経

読み:どきょう
読み:どっきょう
品詞:さ変名詞

(主として仏教の)経文を声を出して読むこと。

妙法蓮華経では五種法師の一つであり、つまり読経は修行の一つである。

また浄土教においての読経は本尊である阿弥陀如来の恩徳を称え感謝するために勤めるものとされる。

目次

仏教に於いては一般に、読経は仏前にて行なう。

葬式や法事では僧が棺や遺骨、位牌の前にて読経をしてくれる。しかしこれを、死んだ人のためと思うのは実は誤りである。

仏教とは

なぜなら釈迦の教え、仏教は、今生きている人を幸福に導くために説かれたものだからであり、苦悩する人間を救い幸福にすべく説かれた説法を、釈迦の弟子たちが後世の迷える人のために書物として残したものだからである。

そしてまた、死後の果報というものは生前の自業自得により定まるからである。幾ら死人の周りで読経をしても、残念ながら死人が善い所へ生まれ変わることはない、とするのが仏教である。結論として、仏前であっても読経は本尊に対して行なうのである。

釈迦の説明

あるとき、釈迦の弟子が釈迦に、死人の周りで有り難いお経を読めば死人が善い所へ生まれ変わるのでしょうかと尋ねた。釈迦の回答は否だった。

釈迦は小石を拾い池に投げた。その沈んでゆく石を指差し、池の周りで、石よ浮け、浮いてこいと唱えていれば石は浮くだろうか、と答えた。しかし石は自重により池の底まで沈んでゆくのである。

人の場合も同じく、自業自得により死後の果報が定まるのであるから、幾らお経を唱えたところで死人の果報が変わるわけはない、というのが釈迦の教えであった。

つまり、読経により死者が救われるというのは、少なくとも仏教においては迷信である。

仏教の教え

だからといって、葬式や法事の読経は全く無意味なのかといえば、それはそれを勤める人の心がけ次第である。

残念ながら死んだ人のためにはならないが、しかしこの式を縁とし仏道に目覚め、罪咎を悔い改められれば、それは遺族にとっては利益になる、死んでからでは全てが遅く、死ぬ前に為すべきことをすべきである。亡くなった方にはもう心しか届かない。気持ちを大切にする心が一番大切である。これが仏教の教えである。

しかし全てが絶望的かというと、そうでもない。釈迦とその弟子の目連の話が残っている。

目連は神通力を持っていて、亡き母を六道中捜し回ったところ餓鬼道で餓鬼となって苦しんでいるのを発見した。そこで釈迦に相談すると、雨安居(うあんご)が終わる日(7月15日)、十万の衆僧に百味の飲食を供養せよと述べられた。目連はそれを行ない、そして衆僧らも施主目連のために成仏を祈願したところ、目連の母は衆僧の神力により餓鬼道の苦悩から解放されたとされる。これがお盆の起源となった。

用語の所属
仏教
五種法師
関連する用語
経文
六道
餓鬼道
妙法蓮華経
釈迦
目連

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