1912(大正元)年〜1996(平成8)年。最終階級 中将。最終授与勲章 ダイヤモンド剣付騎士鉄十字章。出撃回数 705回(うちスペイン300回)、撃墜機数103機。
彼は第二次世界大戦におけるドイツ空軍戦闘機パイロットの中でも特に著名なエースであるが、それは単にスーパーエースであるからだけではなく、戦闘機隊総監という最高位のポストに長く在籍し、ドイツ戦闘機隊の運用に大きく貢献したことや、国民士気鼓舞のための宣伝に利用されたこと、戦後も長らく生き延び、その著作がベストセラーになったからであろう。
1912(明治45)年3月19日、ヴェストファーレンのヴェスターホルト生まれ。幼い頃からパイロットを志し、1930(昭和5)年にドイツ民間飛行学校に入り、操縦資格を取得した。1934(昭和9)年に軍隊に入隊した時にはベルサイユ条約により軍航空が禁止されていたため、ドレスデンで第10歩兵連隊で基礎訓練を受けた後、ソ連領内で密かに軍用機搭乗員としての訓練を受け、1935(昭和10)年3月1日にドイツ空軍が設立されると、正式に第1戦闘航空団に配属された。
スペイン内戦には第88戦闘飛行隊第3飛行中隊長として参加。しかし、この部隊の装備機は旧式のHe51複葉戦闘機だったため、対戦闘機戦は無理であり、地上攻撃に精を出していた。そしてヴェルナー・メルダースにその職を渡し、本国に帰還した彼を待っていたのはわずか27人しか受章できなかったダイヤモンド付スペイン十字章であった。しかし、これはすなわち彼の地上攻撃の有能さが認められたというわけであり、次に彼にあてられた職も地上攻撃部隊の乗員訓練、部隊編成といったデスクワークであり、第二次世界大戦が始まった時も、Hs123複葉急降下爆撃機を装備する第2地上攻撃教導航空団第4飛行中隊長であった。
ポーランド戦における活躍によって第2級鉄十字章を受章するとともに大尉に昇進したが、それでも戦闘機部隊への復帰心は冷めず、嘘の診断書を作成してもらうまでして、1940(昭和15)年4月、第27戦闘航空団本部付に補せられ、第51戦闘航空団へ転属することに成功。フランス戦開始3日後の5月12日に初撃墜をなし、同戦が終了するまでにトップ・エースのメルダースに8機差となる17機撃墜とした。また同戦中の6月6日に大尉に昇進するとともに第26戦闘航空団第3飛行隊長に昇格している。さらに8月1日に少佐に進級し、フランス戦での功績により騎士鉄十字章が授与され、8月22日には前線指揮官の若返り政策により第26戦闘航空団司令に就任している。航空団司令になりながらも精力的に出撃を重ね、9月24日にメルダースに遅れること4日にして40機撃墜に達し、その功に対して柏葉騎士鉄十字章を授与されている。同年11月1日には50機、1941(昭和16)年4月15日には60機となり、メルダース、ヴィックとトップエース争いを繰り広げ、それに伴い彼の名も国民中に知れ渡り、独ソ戦開戦前日の6月21日に全軍で初となる剣付柏葉騎士鉄十字章が授与されている。しかし、メルダースが対ソ戦の勃発に伴いスコアを荒稼ぎできる東部戦線に移り、一挙に100機撃墜を達成してしまったため、スコアは大きく離されてしまった。その後も西部戦線で地道にスコアを伸ばし、8月9日にはイギリス空軍のエースであるダグラス・バーダーの乗機を撃墜し、11月1日には中佐となった。
ところが11月22日に戦闘機隊総監になっていたメルダースが事故死すると、彼が後任に補せられ、12月6日にはヘルマン・ゲーリング空軍最高司令官自らが彼の居るオーダンベール基地に赴き、部隊との決別式・戦闘機隊総監への栄転に関する訓辞を行なった。この時点で彼の撃墜機数は94機にまで伸びていたが、メルダースとのバランスを取る意味もあって改めてその功績を評価し、1942(昭和17)年1月28日にメルダースについで全軍で2番目となる宝剣付柏葉騎士鉄十字章が授与され、同時に大佐に昇進し、さらに11月17日には少将となったが、彼はこのとき未だ30歳でありドイツ最年少の将官の誕生であった。
戦闘機隊総監になった後は新兵器の開発や運用の効率化などに精力的に動いたが、事あるごとに爆撃機偏重の上層部と衝突し、特に連合軍のドイツ本土空襲に対する戦闘機の集中においてヘルマン・ゲーリング空軍総司令官と対立、1945(昭和20)年1月に罷免される。
その後ヒトラーのとりなしでMe262ジェット戦闘機からなる第44戦闘航空集団を与えられ、同じくゲーリングから不興を買っていたシュタインホフ、リュッツォウらのスーパーエースらを集めて編成、1945(昭和20)年3月31日にはドイツ南部のミュンヘン・リーム基地で活動を開始する。ここでガーランドは7機(うち公認4機)を撃墜したが、圧倒的な物量で押し寄せる連合軍に対し損害も多く、彼自身も4月26日の空戦で被弾負傷し、そのまま病院で終戦を迎えた。
戦後連合軍の捕虜となるが1947(昭和22)年に釈放されアルゼンチン空軍の顧問となる。ドイツ帰国後はテオ・オステルカンプと共に事業を起こしている。また、著作の "The First and The Last" (日本語版『始まりと終わり』フジ出版)は15ヶ国語に翻訳され、300万部を超すベストセラーとなった。