エーリヒ・ハルトマン

読み:エーリヒ・ハルトマン
外語:Erich Hartmann ドイツ語
品詞:人名,+軍人

1922(大正11)年〜。最終階級 大尉。最終授与勲章 宝剣付柏葉騎士鉄十字章。出撃回数825回、撃墜機数352機(うち戦闘機が260機、さらにうち8機がルーマニア上空におけるP-51)。

世界一の撃墜機数を誇る超エース。彼の残した352機という撃墜記録が塗り替えられる日は永遠に来ないに違い無い。

1922(大正11)年4月19日、ヴェルテンベルクのヴァイスバッハ生まれ。少年時代から空に憧れ、10代からグライダーによる飛行訓練を受け、1938(昭和13)年にはグライダー指導員の資格を取っている。1940(昭和15)年10月にドイツ空軍に入隊し、第10連隊で1年10ヶ月に渡る戦闘機パイロットの基礎訓練を受けた後、1942(昭和17)年10月10日に第52戦闘航空団第7飛行中隊に配属される。ここで、その若干20歳という年齢と顔から "Bubi"(ブービー、坊や) とあだ名される。彼が最初に列機としてついた相手は第52戦闘航空団第7飛行中隊でも屈指のエースであるエドムント・ロスマン曹長(最終スコア 93機)だった。しかし、初陣ではそのロスマン機を敵機と勘違いして逃げ回った挙げ句に不時着するという失態を演じてしまう。11月5日には初撃墜を記録するが、半年後の翌年5月15日になって漸く15機撃墜に達するなど、ここまではその辺の無名なパイロットの1人に過ぎなかった。

そんな彼が一気に開花したのは7月5日から始まった空前絶後の大戦車戦であるクルクス戦を支援するための航空戦であった。この航空戦で彼はその初日に4機、2日後の7日に7機、8日に4機と一気に記録を伸ばし、7月だけで24機、さらに翌8月には49機を撃墜し、一躍第52戦闘航空団の中でも有数のエースとなった。これにより7月5日に第9飛行中隊長代理となっていたのが、9月2日には晴れて正式に第9飛行中隊長に就任するとともに中尉に昇進することとなった。9月は少しペースダウンしたがそれでも25機を撃墜。10月には33機を撃墜し、実戦デビュー後1年で148機を撃墜したのであった。この功績により、10月29日に西部戦線ならとっくに授与されている騎士鉄十字章を授与された。この後も撃墜ペースは衰えることがなく、1944(昭和19)年3月2日には1日で10機を撃墜し、総撃墜機数を202機とし、一気に200機撃墜の大台に乗り、これによって柏葉付騎士鉄十字章が授与され、続く6月24日には266機撃墜に対して剣付柏葉騎士鉄十字章を授与された。此の頃から彼がいつ前人未到の300機撃墜を達成するかドイツ国民の関心を集めていたが、それは予想以上に早くやってきた。その8月25日、彼は200機達成の時と同じく、1日で10機を撃墜し、通算記録を一気に301機まで上昇させた。無線連絡により、これを知った基地では大騒ぎとなり、航空艦隊司令長官デスロッホ上級大将までが、彼を出迎えに基地に駆け付けた。この快挙は直ちに本国にも伝えられ、翌25日、本国帰還が命ぜられ、ヒトラー総統自らの手で宝剣付柏葉騎士鉄十字章を授与した。

この後は褒美の休暇と、幼馴染みのウルスラ・ペーチュとの結婚などで2ヶ月ほど実戦から遠退いていたが、10月1日には第52戦闘航空団第4飛行中隊長兼第2飛行隊長代理に就任し、前線に復帰した。翌1945(昭和20)年2月に一時的に第53戦闘航空団第1飛行隊長に就任したが、3月に大尉に昇進するとともに第52戦闘航空団第1飛行隊長に就任した。昨年末に通算スコアを331機まで伸ばしていたものの、この年に入ると我彼機数比は絶望的なほどに大きなものとなり、さすがに以前のような大量撃墜は挙げれなくなっていた。それでも4月17日に350機目を撃墜、5月8日にYak-11を撃墜し、通算記録を352機としたが、同日ドイツが降伏したため、そこで彼の空戦歴もピリオドが打たれることとなった。

終戦後は捕虜となり、アメリカからソ連に引き渡されたが、彼の戦果はほとんどソ連機から挙げたものであり、それは当然ソ連からすれば憎き存在なわけで、戦後10年にもわたる戦時捕虜生活を強いられることとなる。それに耐え抜いた彼は1955(昭和30)年10月に妻ウルスラの待つ西ドイツに帰還した。程なく西ドイツ空軍に入隊し、航空団司令などを務めた後、1970(昭和45)年9月30日に48歳の若さで現役を退いた。