オットー・ウエッジゲン

読み:オットー・ウエッジゲン
外語:Otto Weddigen ドイツ語
品詞:人名,+軍人

1880(78?)(明治13(11?))〜1915(大正4)年。最終階級 大尉。最終授与勲章プール・ラ・メリート章

第一次世界大戦の時のドイツUボートエースで、実績で行けば他の者に劣るが、その知名度は抜群で、空のエースで言えばレッド・バロンことリヒトホーフェンに、第二次世界大戦で言えばギュンター・プリーンに相当する。そのためナチス・ドイツ海軍において最初に編成された第1Uボート戦隊にその名を冠せられている。

1901(明治34)年、海軍に入隊。元々小型砲艦の艦長であったが、本人の希望により1910(明治43)年、潜水艦兵科に転籍。U1(U3?)の先任将校、U4の艦長を歴任した後、1911(明治44)年10月、U9艦長となる。翌年大尉に昇進。第一次世界大戦開戦後、海軍軍令部よりの指令に基づき、大海艦隊司令部より彼に出撃命令が下り、9月20日ヘルゴラントから出撃する。22日早朝、海岸に沿って南西に進んでいたところ南の水平線にマストを発見する。直ちに潜航して様子を窺っていると、イギリスの大型巡洋艦であることと二隻の僚艦が居ることが判明した。彼は直ちに襲撃運動に移り、中央の艦に向け魚雷一本を発射した。狙われたのはイギリス装甲巡洋艦「アプーカー」で、僚艦は同型艦の「クレッシー」と「ホーグ」であった。発射した魚雷は「アブーカー」に命中し、「アブーカー」の艦長はこれを機雷原に突入したと判断し、他の二隻に自艦の傍に来るように命じたが、まもなく沈没。「クレーシー」と「ホーグ」も彼の魚雷にやられ、「アブーカー」と同じ運命を辿った。この攻撃に祭し、「アプーカー」に最初の魚雷を発射した後、再装填してそれを「ホーグ」に、続けて艦尾発射管の魚雷を使用して「クレッシー」を撃沈した。この3時間にも及ぶ襲撃は、当時の潜水艦の電池、空気汚染度の限界であり、その中でのこの様な冷静な対処は彼の能力の高さを示している。イギリス側は少なくとも3隻、いや5、6隻の潜水艦による包囲攻撃によるものと発表したが、ドイツ側の声明によって真相が明らかとなると愕然とした。

10月13日、彼は再びヘルゴラントから出撃する。ここで、巡洋艦数隻を発見する。そのうちの一隻「ホーク」に魚雷を発射し、撃沈に成功した。僚艦は先の彼の攻撃により、大型艦は他の大型艦の救助をしてはならないと厳命されており、逃げ去ってしまったので、先の攻撃のような追加戦果はあげられなかったが、これら一連の功により、10月24日、ドイツ皇帝本人から海軍士官としては初となるプール・ラ・メリート章を授与された。

U9で5回の作戦任務に就いた後の翌年2月、新型艦U29の艦長に転じる。彼としては9回目の作戦任務中の3月18日、北海にて戦艦部隊を発見。ただちにイギリス戦艦「ネプチューン」を攻撃したが、外された上に敵に発見されてしまうこととなる。続いての攻撃を練る為に出していた潜望鏡が敵戦艦「ドレッドノート」に発見され、U29は「ドレッドノート」に衝突され、彼を含む乗組員全員が艦と運命を共ともにした。

彼は魚雷による攻撃を重視し、海中での魚雷再装填訓練を繰り返しており、これが装甲巡洋艦3隻の撃沈に役立ったわけであるが、逆に言うと一回の作戦航海で撃沈できる隻数は少なく、元より彼が商船攻撃に興味を示さなかったことから、商船の戦果は4隻、12,934トンに過ぎないが、軍艦における戦果の4隻、43,950トンはトップ記録である。