カール・グスタフ・エミール・フォン・マンネルヘイム

読み:カール・グスタフ・エミール・フォン・マンネルヘイム
外語:Carl Gustaf Emil von Mannerheim 英語
品詞:人名,+軍人

1867(慶応3)年〜1951(昭和26)年。元帥。大統領。

1867(慶応3)年、当時ロシア領だったフィンランドのトゥルク近郊アスカイネンにスウェーデン系貴族の次男として生まれる。しかし、まもなくマンネルヘイム家は没落したため、彼は軍人の道を歩むことにし、ロシアのニコラエフスク騎兵学校に入学、ロシアの騎兵将校となる。帝政ロシア陸軍に入り、1904(明治37)年〜1905(明治38)年満州で勤務し、日露戦争に従軍し、奉天会戦に参加。第一次世界大戦ではポーランド及びガルシアで巧みな防御戦を展開して戦功を挙げた。

ロシア革命時にフィンランドに帰って白軍を組織し、フィンランド労農政府を倒す。1918(大正7)年、連立政府樹立と共に摂政となり、大統領選挙に出馬するが落選。以後公職からは身を引き隠居生活を送った。しかし、時代がそれを許さなかった。ヨーロッパに不穏な空気が流れ出すと彼は請われて復帰。1932年(昭和7)、国防委員長に就任。軍の近代化に努めるが、折からの世界大恐慌や政治家の無理解により、軍の近代化は限定されたものに留まったままの状態で冬戦争を迎える。

1939(昭和14)年11月30日、ソ連がフィンランド軍に倍する大兵力で侵攻してくると、フィンランド軍総司令官として徹底抗戦。強固な防御ライン「マンネルヘイム線」や地理的優勢を生かしてソ連軍を苦しめた。ところで、彼の才能が軍事的なものに限定されていなかった。予想外の強い抵抗に遭ったソ連は和平交渉を求めてきたが、英仏が支援に動いていたこともあり、フィンランド政府は強気になっていた。しかし、英仏の支援は期待できず、自軍はもう限界である一方、ソ連軍にはいくらでも予備兵力がいる事を説き、和平を結ぶように強く進言した。これによってフィンランドは多くの領土を割譲させられたが独立国家として存続することが出来た。

翌1941(昭和16)年の独ソ戦時にはドイツ側に立って参戦するものの、ドイツとは一定の距離を保ち、北欧方面以外での協力は行なわなかった。1942(昭和17)年には元帥に昇進。ドイツの敗北が濃厚となった1944(昭和19)年8月には大統領に就任し、ドイツとの同盟を破棄し、ソ連と講和を結んだ。

大戦後、周辺国がソ連の影響下(隷属国)となっていく中で、フィンランドは中立(いわゆるフィンランド化)を宣言して、ソ連の影響下におかれることを防ぐことに成功する下地を作り、それらの業績によって、「救国の英雄」と称された。病のため1946年に大統領職を辞し、スイスでの療養生活に入る。1951(昭和26)年1月にローザンヌで死去。遺体はフィンランドに送られ、盛大な国葬が営まれた。現在でも行き付けだったレストランには彼の席が今も残っているという。

ドイツとの同盟時代にドイツより騎士鉄十字章(1941(昭和16)年8月30日)と柏葉騎士鉄十字章(1944(昭和19)年8月5日)が授与されている。