1891(明治24)年〜1980(昭和55)年。ドイツ潜水艦隊司令長官。ドイツ海軍総司令官。ドイツ大統領。最終階級 元帥。最終授与勲章 柏葉騎士鉄十字章。
1891(明治24)年9月16日、ベルリン近郊のグルナウ生まれ。1910(明治43)年4月1日、海軍兵学校入校。1912(大正元)年に地中海艦隊の軽巡「ブレスラウ」に士官候補生として乗り組んだ後の1913(大正2)年9月27日少尉任官。をはじめとして6年間水上艦に乗り組んだ後、1916(大正5)年に潜水艦乗組に転じ、フォルストマン大尉の指揮するU39の先任将校、続いて1918(大正7)年にUC25、UB68の艦長を歴任し活躍した。
同年10月4日、船団を攻撃中に突然艦が操作不能となり、海底に向けて沈降を始め、乗組員の命を助けるために彼は浮上を命令、船団の護衛部隊の前に急浮上してしまい、再潜水する圧搾空気も使い果たしてしまったためやむなく捕虜となる。この捕虜生活の中で、「Uボートの艦長は絞首刑だよ」という噂を耳にする。ここで彼は後に見せる不屈の精神の片鱗を見せる。彼はそこで唯一の生き残る方法、本国への送還計画を実行に移した。彼は酒保で買えるビスケットの空き缶や瀬戸物のおもちゃの犬で、子どものゲームをしてすごしながら絶え間ずやまず発狂した不利をし続けたのである。このリアルさは彼の先任将校であるミュッセン少尉でさえ艦長はすっかり気違いになったと信じ込んでしまうほどであった。やがて、重症患者の部屋に移されたが、ここで同僚のUボート艦長、フォン・シュピーゲル大尉に「デーニッツ、気違いのまねをしたってここでは助かりやしないよ。みんな、それをやってみたんだ。その他、何か具合の悪いところは無いか? マラリアとかなんか…」と言われた。こうして彼の症状に「熱帯風土病」が加わることとなった。やがて、彼はイギリス人医師の口から「典型的な送還ケースだな。リストに載せろ」というようやく待ちこがれていた言葉を聞いたのである。こうして彼は1919(大正8)年夏に、変わり果てた祖国ドイツに送還されたのである。
変わり果てた祖国で彼を待っていたのは元地中海方面Uボート戦隊の先駆者で、今はキールで旧海軍軍人の中から新しい海軍に携わる人材を集める仕事をしていたシュルツェ少佐であった。シュルツェは彼に「デーニッツ、一緒にやらんか?」と誘いの言葉を投げかけた。これに対し、彼は「また我々がUボートを持てるとお考えですか?」とのみ問うた。「無論だ。数年以内には必ず」この言葉を受けて彼は新しい海軍に入ることを決意した。ドイツはヴェルサイユ条約で潜水艦の保有を禁止されていたため、勤務も水上艦であり、水雷艇「T-157」艇長、駆逐隊司令、北海方面海軍司令部参謀を経て、1934年9月に軽巡洋艦「エムデン」艦長となった。1935(昭和10)年9月、この「エムデン」でのインド洋への親善航海から帰国し、任務報告のためにエーリヒ・レーダー海軍総司令官の元に出頭した彼に対し、レーダーは彼に潜水艦部隊の指揮官となることを命じた。こうして彼はようやく潜水艦部隊に返り咲き、再軍備後最初に編成された第1潜水隊司令となったのである。その直後の10月に大佐に昇進。さらに1936(昭和11)年1月1日には全潜水艦を統括する潜水艦隊司令官(FdU)に就任した。1939(昭和14)年1月28日には代将に昇進し、第二次世界大戦開戦直後の9月19日には潜水艦隊は艦隊と並ぶ地位に昇格し、それに伴って彼の職格も潜水艦隊司令長官(BdU)となり、10月1日に少将に昇進した。
開戦時、手持ちのUボートの数はわずか56隻、しかもその多くは小型で大海に出られないものばかりで、航洋能力を持っていたのはわずか26隻しかなかった。彼の対英戦に必要なのは戦艦ではなくて潜水艦であるという主張はレーダーによって拒否され続けてていたのである。このような保有数では彼の持論である、緊密な連絡の下、多数の艦によって敵船団を攻撃するという、いわゆる狼群戦術は中々実行に移せなかった。加えてアメリカを刺激する事を極端に恐れるヒトラーによって課せられた制限(これはアセニア事件でさらにかたくななものとなった)によって思うように成果は挙げられなかった。しかし、やがて航洋能力を持つUボートの数は増えて来、またレーダーと彼の説得によりヒトラーによって課せられていた制限も取り払われていったことに加え、1940(昭和15)年6月のフランス降伏におよんでUボートを巡る情勢はにわかに好転した。フランスが降伏することによって、ブレスト、サンナゼール、ロリアンなどのフランス西岸にUボート基地を設けることが出来るようになり、大西洋への進出が遙かに楽になると共に、作戦海域と基地との往来に必要な日数が短縮されたことによって稼働率が向上したのである。こうして、フランスが降伏した1940(昭和15)年6月にはそれまでの平均月間撃沈トン数が20万トンだったのに対し、一挙に60万トンにまで跳ね上がり、翌月以降も40万トンの撃沈トン数を挙げていった。1940(昭和15)年6月にはそれまでのこれまでより、開戦直後から大きな成果を上げ続けた。また、1940(昭和15)年6月14日には騎士鉄十字章を授与されている。1941(昭和16)年の後半は不調であったが、太平洋でも戦いが始まり、アメリカが参戦してくると再度情勢は転向した。様々な対潜対策を取っているイギリス船と違って、アメリカ船は無防備だったのである。こうして、1942(昭和17)年は月間撃沈トン数が40万トンを下ることが無かったばかりか、80万トンに達した月すらあった。また、この間、1940(昭和15)年9月1日に中将、1942(昭和17)年3月14日大将へと昇進していた。
1943(昭和18)年1月30日、水上艦の不甲斐無さに怒ったヒトラーとの衝突によってレーダーが辞任すると、その後を受けて海軍総司令官となり、同時に元帥となった。ヒトラーとレーダーとの対立の原因はヒトラーが水上艦部隊の解体であった。したがって、レーダーの後任が潜水艦艦隊司令長官であった彼となると水上艦の運命は風前の灯かとも思われた。しかし、彼はそんな偏狭な人間では無く、水上艦隊の価値も理解しており、就任から一ヶ月弱後の2月26日、ヒトラーに水上艦隊の保持を認めさせることに成功している。前任者レーダーの場合は上官の命令は絶対と盲目的にヒトラーの命令には従い、自分の考えと命令とが異なる際には命令の抜け穴を利用して自分の考えを実現させるという方法を取っていた。これに対し、彼はヒトラーを説得させる能力を持っていた希有な人間であり、こういったところも後にヒトラーをして彼を自身の後任に選んだ際の理由となっているのではないだろうか。
1943(昭和18)年4月6日には柏葉騎士鉄十字章を授与されているが、戦雲はドイツに不利に傾きつつあり、海軍も苦戦を強いられていた。アメリカが大量の護衛空母を取り揃え、それまで存在していた航空機の飛来しない、Uボートにとっての安全地帯が失われていったのである。Uボートの乗組員はいつなんどきでも攻撃されるかもしれないというストレスの中で戦闘を続けざるを得なくなっていたのである。こうして、1943(昭和18)年の後半になると月間撃沈トン数は20万トン以下となる一方、撃沈されるUボートの数は急増していた。彼の身辺でも軍務に身を投じていた次男ペーター・デーニッツ中尉(U239乗組)が1943(昭和18)年5月19日に、続いて長男クラウス・デーニッツ(S-141)が1944(昭和19)年5月13日に戦死するという不幸が起っている。Uボートの建造隻数は増加を続け、水中高速型(XXI型)やところで、ヴァルター・エンジン搭載型(XXVI型)も開発されていたが、戦局を挽回するには至らなかった。
こうして、ひしひしとドイツの敗戦が近づいていた1945(昭和20)年5月1日、ヒトラーは自殺し、遺言により思いかけず彼が国家元首となり、敗戦処理を行なうこととなった。
戦後はニュールンベルク裁判で「平和に対する罪と戦争犯罪」により、禁固10年を言い渡されてドイツのシュパンダウ収容所に拘留されたが、この裁判の時の彼の言葉「次回も私は同じ行動をとるであろう」は有名である。またハンブルクに住んでいた彼の妻は夫の服役中、金銭敵に苦しい生活を余儀なくされており、中々夫に会いに行けなかった。それを見た元Uボート関係者らがお金を工面したという美談も残っている。保釈後は復員兵の為に尽力し、1980(昭和55)年12月24日にハンブルクで死去、彼の棺は騎士鉄十字章を有する8人の元エースによって墓地に運ばれた。