ゲルハルト・バルクホルン

読み:ゲルハルト・バルクホルン
外語:Gerhard Barkhorn ドイツ語
品詞:人名,+軍人

1919(大正8)年〜1983(昭和58)年。最終階級 少佐(ナチスドイツ空軍)、少将(民政ドイツ空軍)。戦術攻撃航空軍司令官(西独空軍)。最終授与勲章 柏葉付騎士鉄十字章。出撃回数1,104回、撃墜機数301機。

エーリヒ・ハルトマンに次ぐ301機の撃墜記録を挙げたスーパーエース。ハルトマンの陰に隠れがちであるが、300機の大台を突破したのは後にも先にも彼ら二人だけであり、また彼は名指揮官でもあった。

1919(大正8)年3月20日、ケーニヒスベルク生まれ。1937(昭和12)年11月にドイツ空軍に入隊し、1939(昭和14)年には戦闘機パイロットとしての訓練を終了、第二次世界大戦勃発直後に少尉に任官して第2戦闘航空団第6中隊に配属される。8月には第52戦闘航空団第6中隊に転属。この両部隊に属してバトル・オブ・ブリテンに参加し、21回の作戦飛行をこなしたが、戦果を挙げることはできなかった。舞台を東部戦線に移した後の1941(昭和16)年7月2日にDB-3爆撃機を撃墜して、漸く念願の初撃墜を記録した。しかし、その後も伸び悩み、年末になってもまだ10機撃墜であった。

ところが、1942(昭和17)年3月1日に中尉に昇進するとともに第52戦闘航空団第4中隊長に就任すると、その責任感からか撃墜機数は急上昇を始め、5月に7機撃墜したのを手始めに、6月に16機、7月に31機を撃墜し、通算スコアが64機になったので、8月23日、ここで騎士鉄十字章が授与されている。約2ヶ月のブランクの後、10月に14機、11月に7機、12月に17機とスコアを重ね、100機の大台を突破した。そしてトータルで105機(120機?)とした翌年1月11日(12日?)に柏葉付騎士鉄十字章が授与されている。9月1日には162機撃墜に達し、大尉に昇進するとともに第52戦闘航空団第2飛行隊長に就任した。その後も精力的に出撃を重ね、1943(昭和18)年11月30日には5人目となる200機撃墜を達成。翌1944(昭和19)年には出撃回数も1,000回を突破。続く2月13日にはヴァルター・ノヴォトニー、ギュンター・ラルに続いて3番目となる250機撃墜を達成し、その功績に対し3月2日付で剣付柏葉騎士鉄十字章が授与された。しかし、その喜びも覚め止まぬ5月31日に通算272機撃墜を挙げた直後に負傷し、5ヶ月間も前線から離れることとなった。この間に驚異的な伸びを示していたエーリヒ・ハルトマンにスコアを抜かれてしまっている。10月26日、漸く前線に復帰し、273機目を撃墜した。その後も着実にスコアを伸ばし、1945(昭和20)年1月5日、ハルトマンに次いで2人目となる300機撃墜を達成した。ここで本来ならば宝剣付柏葉騎士鉄十字章の受章資格があるはずなのであるが、末期の混乱の中で実現のものとはならなかった。一方、その直後の1月16日付で長らく在籍した第52戦闘航空団を離れ、本土を防空する第6戦闘航空団司令に、続いて4月15日にはアドルフ・ガーランド中将率いる第44飛行集団に転じてMe262ジェット戦闘機による絶望的な出撃を行なったが、エンジントラブルによる不時着で負傷し、病院で終戦を迎えることとなる。

退院後の1945(昭和20)年9月9日に捕虜となり、釈放後は西ドイツ空軍に勤務、少将まで昇進し、戦術攻撃航空軍司令官を務めた後に退官し、1983(昭和58)年1月8日にケルンで死去した。

ハルトマンが先手必勝、高度差を利用した急降下攻撃による一撃必殺を得意としたのに対し、彼は時にはドックファイトも行なう近接戦による攻撃を得意とした。