1898(明治31)年〜1978(昭和53)年。航空機設計者で、メッサーシュミット社社長。
1898(明治31)年6月26日、ドイツのフランクフルト・アム・マイン市にワイン商人の息子として生まれる。少年の頃にバムベルグ市に移り、ボーデン湖に旅行したときに湖上を飛行するツェッペリン飛行船に魅了され、飛行船の設計士になることを志すようになる。
14歳になった時には学校の休日の全てをグライダーの製作助手として近くの工場で働くようになっていた。
彼はドイツの競技用グライダーのパイオニアであった、フリードリヒ・ハースの知人となった。ハースが1914(大正3)年の第一次世界大戦勃発と共に軍役に付いた後も彼はハースの設計したS5グライダーの仕事を続けた。1917(大正6)年には彼自身も軍役に身を投じたが、終戦後、ミュンヘン技術学校に通いながら、再会したハースと共に働いた。1921(大正10)年に二人が設計・製造したS8グライダーは、非公式ながらもグライダーの世界飛翔時間記録を破った。同じ年、彼が一人で設計したS9グライダーが飛翔に成功している。
しかし、彼らの協力体制もここまでで、1923(大正12)年には仲間割れを起こし、メッサーシュミットは彼独自の会社をアウクスブルクで設立した。ここで彼はS14と命名されたグライダーを設計し、続いてわずか3Lのガソリンで100kmも飛行したS15、S16動力付グライダーを設計した。その次に設計したM17飛行機は搭載していたエンジンの出力はわずか25馬力でありながら135km/hを出すことが出来、また長距離を飛行できた。このM17は1925(大正14)年のミュンヘン国際飛行競技大会で優勝し、「戦後ドイツの最優秀飛行機」とまで言われた。
1927(昭和2)年にはバイエルン州政府の意向により、彼の会社はバイエルン航空機製造(BFW: Bayerische Flugzeugwerke AG)と合併し、彼は合併会社の主任技師となる。BFWは彼の設計したM20軽輸送機2機をルフトハンザ航空に売ったが、M20はその後ほど無く相次いで深刻な事故を引き起こし、他の注文をキャンセルされた。そのため、BFWは1935(昭和10)年には倒産に追い込まれた。また、BFW及び彼は、この事故によって友人を亡くした、ルフトハンザ航空社長で後にドイツ空軍次官となるエアハルト・ミルヒの不興を買うという決定的な失点もしている。
1933(昭和8)年に設立されたナチス政権下で、ドイツの航空業界は復興し、BFWも復活を遂げることが出来た。彼は会社復活の目玉商品として、低翼単葉スポーツ機M37をロバート・ルーサーと協力して設計した。ミルヒによって、ドイツ政府への調達が期待できない彼はルーマニア政府とM37の販売契約を結ぶと共に、1934(昭和9)年のヨーロッパ周回国際飛行大会に出場させた。このM37の先進的な設計と戦後の軽飛行機にも劣らない高性能は内外の注目を集め、翌年にはM37を軽輸送機として再設計して量産化することが決まった。M37は彼の設計した通算ナンバーとしては108番目であったので、Me108と呼ばれ、更には「タイフーン」という愛称まで付いた。
1934(昭和9)年、ドイツ空軍の単座戦闘機の競争試作を指示されると、Me109を開発。他社、特にハインケル社のHe112との激しい戦いの後、正式採用された。このMe109は第二次世界大戦終了まで生産が続けられ、3万573機も生産されるという空前の大ベストセラーとなり、彼の名をより世界に知らしめた機体でもあった。
1938(昭和13)年、彼はBFW社の社長に任じられ、同時に社名も彼の名をとってメッサーシュミットAGとなった。
第二次世界大戦後、彼は非ナチ化法廷で裁かれ、1948(昭和23)年、「シンパ」として有罪判決を受けた。2年後、入獄生活から解放され、自由の身となったが、航空機製造は禁じられた。そのため、彼の会社はプレハブの建物やミシン、そして有名なKR200などの小型車を製造した。また、1952(昭和27)年、ドイツでの航空機製造が認められる前に、彼の才能を生かすために、スペインのヒスパノ航空機でヒスパノHA200ジェット練習機を設計した。
メッサーシュミット社は1960(昭和35)年、ヘリコプター会社のベルコウ社と合併。続いて1969(昭和44)年にはハンブルクの航空機メーカー、ブローム社と合併。社名は3社の頭文字を取って、"MBB"(Messerschmitt-Bölkow-Blohm) となった。彼は彼が引退する1970(昭和45)年までこの合併会社の社長であり続けた。彼が亡くなったのは、引退後8年を経た1978(昭和53)年9月15日のことであった。
彼は第二次世界大戦におけるドイツ航空機設計者として最も有名な人物であるのは疑問の余地がないが、彼の航空機設計能力には疑問符が付けられることが多い。彼の設計した航空機には安定性が欠けていることが多く、ハースが彼と袂を分かったのもそれが原因であった。M20の事故の原因もつまるところそれであった。彼の一番の成功作であるMe109も安定性は悪く、事故を多発した。また、彼の名前の冠せられたMe262やMe321にはその様な問題点は無かったが、彼はそれの設計にタッチしていない。また、彼は経営者としても有名であったが、ナチス党員であるということを利用して他社、特にハインケル社に対しての政治的な行動は彼の評判を落とす一因にもなっている。彼の名声を高めたMe209(1969(昭和44)年にジェット機に破られるまで世界最速記録保持)もハインケル社が本来浴びる栄誉だったものである。
彼の名前は "Wilhelm(ヴィルヘルム)" であるが、それの愛称の "Wili" の英語表記である "Wily(ウィリー)" としての方が有名である。