古賀清澄

読み:こが・きよと
外語:KOGA Kiyoto
品詞:人名,+軍人

1910(明治43)年〜1938(昭和13)年。日本初の戦闘機エース。最終階級 特務少尉。出撃回数6回、撃墜機数13機(うち戦闘機11機、爆撃機2機)

1910(明治43)年6月30日、福岡県八女郡黒木町に生まれる。1927(昭和2)年6月佐世保海兵団に入団。信号兵を経て1930(昭和5)年5月、第16期操縦練習生に採用され、霞ヶ浦航空隊に入隊、翌年5月同課程を卒業した。戦闘機操縦者として大村、横須賀航空隊に勤務し、1934(昭和9)年度、1936(昭和11)年度に航空優秀章を授与された。

1937(昭和12)年7月、一空曹だったときに支那事変が勃発。第13航空隊に配属され、翌8月に上海基地に進出、9月19日の南京初空襲においてカーチス・ホーク2機を撃墜。3日後の22日にさらに2機のカーチス・ホークを撃墜。10月6日に戦闘機2機、爆撃機1機を撃墜、一挙に総撃墜機数を7機にまで延ばして日本初のエースとなった。その後も撃墜機数は伸び、11月24日にI-16、12月2日にマーチン重爆、6日には南昌上空でI-16を3機撃墜している。こうして南京及び南昌上空における前後6回の空中戦闘において、戦闘機11機、重爆撃機2機の計13機撃墜という抜群の戦功をあげた。

この功績に対して、12月31日、長谷川支那方面艦隊司令長官より異例の生存者個人感状が授与され、同日付をもって航空兵曹長に特別進級した。

搭乗員を志すものにとって模範と見なされていた彼は1938(昭和13)年はじめに本土に帰還、横須賀航空隊で教官として勤務することになった。9月15日午後7時頃、夜間飛行演習を指揮中にサーチライトに幻惑されて墜落。重傷を負い病院に収容されたが翌16日、絶命した。

「超人・古賀兵曹」と呼ばれ、人情味深く旺盛な闘志と闘魂を持つ典型的な海軍戦闘機操縦者であった。