小沢治三郎

読み:おざわ・じさぶろう
外語:OZAWA Jisaburo
品詞:人名,+軍人

1886(明治19)年〜1966(昭和41)年。最終階級 海軍中将。聯合艦隊司令長官。海軍兵学校第37期(179人中45番)。

1886(明治19)年10月2日、小沢寅太郎の次男として宮崎県の高鍋町に生まれる。少年時代は豪快なエピソードで溢れており、まず手始めとして、宮崎中学校四年生の時、隣の合宿に殴り込みをかけ、校長夫人の人力車をひっくりかえした。続いて、不良青年から喧嘩を吹っ掛けられ、それを投げ飛ばしたところ、地元新聞が報道したため、退学処分を受けてしまう。退学後、東京の成城中学校に転校するが、神楽坂を散策中に男に因縁をつけられたので柔道でねじ伏せ、下駄で足蹴にしたところ、男は潔く降参した。この男が他ならぬ後に日本一の柔道家になった三船久蔵十段なのだというから驚きである。

海軍兵学校卒業後、彼は水雷畑への道を選択したが、これは小国日本では、主力艦同士の砲戦では駄目で、別の手段(つまり雷撃)によってでないと勝利を収め得ないだろうとの判断からであった。1927(昭和2)年8月の美保ケ関事件の時には、訓練前に聯合艦隊司令部を訪れ、「建制、指揮系統、諌度を異にする第二七駆逐隊を第二水雷戦隊の中に加え、夜間魚雷発射訓練を行なうのは危険である」と建言しており、ここらあたりから彼は注目され始める。

水雷学校の教官時代に日本海軍の作戦思想であった「決戦主義」に疑問を抱き、そのような漸減作戦などという虫の良い戦いは起こらないと考え、生徒に「海戦要務令」を読むなと言っていた。また、その考えから、戦艦の夜戦投入を提唱している。彼のこの考えはやがて海軍全体の支持を得て、主力艦に強力な探照灯や照明弾が装備されることとなった。この予見の正しさは後にソロモンでの夜戦部隊の活躍によって証明される。

次に、第一航空戦隊司令官時代にそれまでから抱き続けていた戦艦に対する航空機の優位を確信し、それを更に強固にするため、1940(昭和15)年6月9日、「航空艦隊編成ニ関スル意見書」を海軍大臣に提出する。こうして生まれたのが、大東亜戦争初期に太平洋を所狭しと暴れ回った日本の機動部隊なのである。自他ともにその新たに誕生する機動部隊の司令長官には彼が任命されるものと考えていたが、序列から、全くの専門外の人間であった南雲忠一が任命され、彼は海軍大学校校長として陸にあげられてしまう。

大東亜戦争勃発時には脇役の南遣艦隊司令長官であり、マレーシアのコタバル上陸作戦の任を与えられていた。聯合艦隊の主力は真珠湾攻撃に向けられており、彼の隷下には寄せ集めの艦隊しかなく、大本営海軍部では「コタバル上陸は無理に実施しないように」との指示を出していた。これに対し、彼は綿密な作戦計画を練り上げ、コタバル上陸作戦を決行。見事に成功させている。これによって陸軍の間では彼こそが日本一の提督であるとの評判がたった。

この上陸作戦が完了して、一息つく間も無く、伊五八号潜水艦からフィリップス提督率いるイギリス艦隊発見の報が入る。彼は直ちに「基地航空部隊ハ全力ヲ挙ゲテ敵艦隊ヲ捕捉撃滅スベシ」と発令するとともに、自艦隊も全力で進撃を開始した。結果は艦隊が到着する前に航空部隊が撃滅してしまい、彼の直な作戦指揮の腕前は見られなかったが、遠隔地からとはいえ、指揮官が彼であることには違いなく、彼の勇名は一層轟いた。ここで、軍医が彼にお祝いの言葉をかけると「俺もいつかはフィリップス長官と同じ運命をたどるだろう」と将来を予見する発言をしている。

ミッドウェー海戦においては、彼は直接携わる職には無かったが、シンガポールのセレスター軍港内に停泊する旗艦「香椎」で刻々と入る無線電報を聞いていた。ここで「敵の出方があまりにも計画的ではないか。これは日本側の暗号が、漏れているに違いない」と考え、軍令部の暗号担当に調査の必要性を伝えるが、「その心配は全く無い」との回答が来るばかりだった。事実、この時既にアメリカ軍は日本海軍の暗号を解読していたのである。

その後、1942(昭和17)年11月になって南雲から第三艦隊すなわち空母部隊を引き継ぐ。しかし、既にかつての航空艦隊の面影は無く、一から母艦搭乗員の訓練を始めなければならなかったが、練度が上がる度に「い」号作戦、次いで「ろ」号作戦に基地航空隊として使用され、空母部隊の再建は捗らなかった。

ようやく空母機動部隊にお鉢が回ってきたのは1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦である。この海戦において彼は勝利を確信していたが、予想外の惨敗を喫してしまう。この海戦において、彼はアウトレンジ戦法を提唱していた。アメリカ軍機は燃料タンク内に何重にも防備が施されているため、日本機に対して航続距離が短い。その差を突いてアメリカ軍機の航続距離外から攻撃隊を発進させ、まず空母の甲板を破壊し、艦上機の発着が出来なくなったところで、戦艦及び夜戦部隊で叩き付ける。これが骨子であった。しかし、この作戦を遂行するには搭乗員の諌度が低すぎた。そもそも着艦すらままならない搭乗員が大半であり、その上前進基地としてタウイタウイに入港後、敵潜水艦が外遊しているため、外洋での訓練が行なえなくなり、また泊地内は無風であったため、泊地内での訓練も行なえず、ただでさえひどい諌度が更に下がり、機体の整備状態も悪化していた。それまで長らく訓練を見続けてきた彼ならばそのぐらいのことに気がつきそうなものであるが、彼は緻密な性格で、数字で計算するタイプであり、またその彼に意見具申すべき参謀達のほとんどは空母戦闘の経験が無かった。海戦の翌日、彼は部下の参謀の前で「部下に難しい戦法をやらせ、戦死させ、誠に申し訳ないことをした」と語っている。しかし、スプールアンスのアメリカ機動部隊は精密なレーダーによる戦闘情報センターやVT信管付の対空砲火を装備しており、どのような作戦をたてたとしても結果にさほどの違いがなかったのも事実である。戦後、周囲の研究家がアウトレンジ戦法に疑問を投げかけると彼は「それなら他にどんな方法がある」と言ったそうである。

マリアナ沖海戦の後、彼は辞表を提出するが、受け入れられずにレイテ沖海戦に出撃する。このレイテ沖海戦において彼に与えられた任務は敵の機動部隊の関心を自身に集め、本隊のレイテ湾突入を容易にするという、すなわち囮役であった。彼はこの囮の任を十二分に果たし、ハルゼー艦隊のつり上げに成功したが、本隊がレイテ湾突入を断念したため、水泡に帰してしまう。

その後、聯合艦隊司令長官になるが、既に戦艦「大和」は沈み、生き長らえた戦艦「長門」以下の艦艇は重油が枯渇して要港に係留されたままの艦隊でしかなかった。再三の大将進級の打診にも頑として肯んじなかった彼は中将のまま終戦を迎えた。

コラム(略歴)
明治19.10. 2 宮崎県に生まれる
    39.11    海軍兵学校(第三十七期)入学
    42.11.19           〃          卒業
    43.12.15 海軍少尉
大正 4.12.13 海軍大尉
    10.12    海軍少佐
    15.12    海軍中佐
昭和 4.12. 1 出仕(欧米出張)
     5.12. 1 大佐・第一駆逐隊司令
     6.10.10 第十一駆逐隊司令
       12. 1 海軍大学校教官
     9.11.15 「摩耶」艦長
    10.10.28 「榛名」艦長
    11.12. 1 海軍少将・海軍大学校教官
    12. 2.18 聯合艦隊兼第一艦隊参謀長
       11.15 第八戦隊司令官
    13.11.15 水雷学校校長
    14.11.15 第一航空戦隊司令官
    15.11. 1 第三戦隊司令官
          15 海軍中将
    16. 9. 6 海軍大学校校長
       10.18 南遣艦隊司令長官
    17. 1. 3 第一南遣艦隊司令長官
       11.11 第三艦隊司令長官
    19. 3. 1 兼第一機動艦隊司令長官
       11.18 軍令部次長兼海軍大学校校長
    20. 5.29 海軍総隊司令長官兼聯合艦隊司令長官
              兼海上護衛総司令長官
        8.25 免兼
       10.10 予備役
    41.11. 9 死去