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小山田信茂
辞書:文化用語の基礎知識 戦国時代編 (LHMIDAGE)
読み:おやまだ-のぶしげ
外語:OYAMADA Nobushige
品詞:人名

1539(天文8)年〜1582(天正10)年。弥三郎。左衛門尉。越前守。武田二十四将の一人。父:小山田出羽守信有(長男)。郡内小田山家17代目当主。甲斐国都留群谷村岩殿城城主。普請家老衆250騎持。

1552(天文21)年、父の戦死にともない弱冠12歳で家督を継ぐ。若年ながらも1554(天文23)年、晴信(信玄)の長女が相模の北条氏政に嫁すにあたっての行列を取り仕切った。武勇にも優れ、1557(弘治3)年には第三次川中島の合戦で初陣を飾り、1569(永禄12)年の小田原攻めでは、八王子で北条氏照軍を破り、1572(元亀3)年の三方原でも先鋒大将をつとめている。こういった武功により小山田勢は武田軍中最強と評されている。

また、馬場信房・山県昌景などの宿将たちとともに「弓矢の御談合七人衆」の一人に選ばれたり、「文のいることは弥三郎(信茂の幼名)に聞けばよい」と文武両面に渡って、信玄の信頼も厚かった。これもその武田家と小山田家の関係及び信茂の抜きん出た能力に拠るものである。

信玄没後の1575(天正3)年5月の長篠の合戦でも、信茂は自部隊から武田軍中一番の犠牲者を出しながら一時は織田方の防護柵を破るなどよく戦った。

1582年3月(天正10年2月)、武田滅亡に際して、信茂は武田勝頼に岩殿城へ退くことを勧める。3月9日、信茂は勝頼の受け入れ態勢を整えるべく先んじて郡内に帰る。実は信茂からの申し出よりも先に真田昌幸からの自城・上田城への引き入れ申し入れがあり、勝頼も乗り気になっていたのであるが、勝頼はあえて反故にしている。これも外様の真田家と普請中の普請の小山田家との差があったからこそであった。しかし、勝頼の首を持参すれば織田も許してくれるとでも考えたのか信茂は勝頼の入城を拒み、3月11日武田氏は天目山にて一族郎党自刃、滅亡した。

3月14日、信茂は甲府・善光寺に滞陣していた織田信忠と謁見したが、主家を裏切った不忠者として捕らえられる。信忠は堀尾吉晴に信茂の処刑を命じた。堀尾吉晴の臣則武三太夫が介錯のもと信茂は切腹、小山田家は断絶した。

確かに小山田氏は武田氏と代々姻戚関係を結び、武田軍の主力として存在していたことを考えればその行為は許し難いものとも考えられるが、小山田氏と武田氏の関係は主従関係というよりも同盟関係に近く、自家存続のためには仕方のない行為と考えられなくもない。

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