日露戦争のあと、朝鮮半島が日本に併合されること。日韓併合、韓国併合ともいう。
期間は理論上は、1910(明治43)年8月29日〜1945(昭和20)年8月14日である。
この併合に際して日本と朝鮮は戦争をしていない。にも関わらず併合するに至ったのは、朝鮮の懇願があったからである。
李氏朝鮮(大韓帝国)は、このままでは国が潰れるからと、日本に併合を頼んだ。
日本も、国防の問題があったことから、渋々この併合を受け、晴れて朝鮮は日本領となったのである。
日露戦争終戦後、1905(明治38)年に日本の統監統治が始まっていたが、1910(明治43)年に「韓國倂合ニ關スル條約」(明治43年条約第4号)により、日本に併合された。
こうして日本は朝鮮を平和的に吸収することで、長きに渡って試みてきた大陸進出の夢を果たしたのである。
「韓國倂合ニ關スル條約」(韓国併合に関する条約)は1968(昭和43)年8月22日に李氏朝鮮(大韓帝国)の京城において調印され、同月29日に裁可公布、即日発効された。
時は1919(大正8)年、三・一独立運動が起こる。この時、
なぜなら独立が必ずしも国家にとって益と限らないことを歴史が語っているためだが、李完用も同様に考えていたからである。
時代遅れの李氏王朝から日本の統治に切り替わり朝鮮の維新が達されたが、ここで朝鮮が独立するよりも日本の統治を受けながら実益を追求するほうが明らかに得だったのである。当時これを嫌う人もいたが、朝鮮人に絶大な影響力を持っていた李完用の呼びかけにより、約3ヶ月続いた三・一独立運動は軍隊が介入することなく、平和裏に終結した。この李完用の思想はその後、李光洙や崔南善らに引き継がれた。
当時の朝鮮は、日本にとって植民地ではなく日本領の一つだった。
大東亜戦争当時に台湾が二等国民だったのに対し、朝鮮は一等国民、すなわち日本そのものだったのである。
当時の国際情勢では西欧諸国は第三世界で愚民政策を取り搾取を繰り返すことが常識であったが、日本が植林するまでは禿山だらけで何も無い農村国だった朝鮮には奪うものが何も無かった。
台湾統治の経験により、簡単には搾取が出来無いことを承知していた日本は、逆に朝鮮に富を与えた。朝鮮併合は半島にとり、良いことずくめだったのである。
この時、日本は朝鮮に莫大な資本と人材を投与し、朝鮮は近代化を成し遂げた。しかし、台湾と違って朝鮮からは全く何も回収出来ていない。
こうして併合された後、朝鮮人は大東亜戦争で志願兵となり日本人として戦い、また日本陸海軍の将校としても日本軍を指揮し、活躍した。
実際に、戦争末期には朝鮮人の特攻隊員もいたのである。
すなわち、朝鮮は日本と共にアジアに進出したのであった。ところが戦後は一切の責任を日本にかぶせて自分は被害者づらをし責任を逃れ、敗戦国民でも戦勝国民でもない、第三国人を自称した。
あまつさえベトナム戦争では民間人を虐殺し強姦、大量の私生子(非嫡出子)を作った。私生子の彼らは今も、韓国・ベトナム双方で受け入れられずに苦しい暮らしをしているのである。
1945(昭和20)年8月14日、大日本帝国はポツダム宣言を受諾し、大東亜戦争は停戦となった。
(GHQ統治下の)日本は、朝鮮総督府から日章旗を下げ太極旗を掲揚させ、朝鮮に自治権を付与した(朝鮮人民共和国)。
だが、戦前から朝鮮分断を画策していたソビエト連邦とアメリカ合衆国、このうちアメリカは南北の対立を煽るため9月8日、南鮮(後の大韓民国)に進駐し自治権を剥奪。再び日章旗を掲揚して日本の一部として扱い、その翌日には星条旗をひるがえし、米軍による「軍政」が布告された。
従って史実上は、韓国の前身たる南朝鮮は日本から独立することなく米国の軍政下におかれたのである。南鮮が独立し大韓民国となったのは3年後の1948(昭和23)年8月13日だった。
その後の大韓民国(当時の南朝鮮)の対応は、日本には植民地化に対する謝罪・賠償要求(1965(昭和40)年の日韓基本条約で決着が付いているにも関わらず)、米国に対しては一切お咎め無し(独立を支援したとの理由)。