エーリヒ・レーダー

読み:エーリヒ・レーダー
外語:Erich Reader ドイツ語
品詞:人名,+軍人

1876(明治9)年〜1960(昭和35)年。ドイツ海軍総司令官。最終階級 海軍元帥。

1876(明治9)年4月24日、ハンブルクのヴァンズベックで公立学校の校長の息子として生まれる。1894(明治27)年海軍兵学校入校。1897(明治30)年中尉任官。各種艦艇での海上勤務の後、軍の報道官に任命される。ここで公衆との関係を良好に保つことの大切さを学んだ。続いて1911(明治44)年、皇帝ヨット「ホーヘンツォレルン」の航海長となった。ここで彼は廷臣、政治家、提督などといった上流階級に属し、国政を動かす指導的立場の人間達と交わった。少佐、中佐であった1912(明治45)年10月から1918(大正7)年1月まで、つまり第一次世界大戦前から大戦中のほとんどという重要な期間を偵察艦隊参謀、次いで参謀長としてフランツ・フォン・ヒッパー提督の薫陶を受けた。またこの立場でドッガー・バンク、ジュットランドの両海戦に参加。後にジュットランド海戦はドイツの戦略的敗北であったと内輪に洩らしている。1918(大正7)年1月軽巡「ケルン」艦長。1919(大正8)年11月、大佐に昇進。

第一次世界大戦後、海軍総司令部中央部長となる。しかし、新海軍として出直した直後に叛乱が発生。この叛乱の共謀者としてフォン・トロータ大将が逮捕されたほか171名もの海軍将校が逮捕された。彼はこの叛乱には荷担していなかったが、フォン・トロータの薫陶を受けていたため、戦史部に左遷された。戦史部は退屈なポストではあったが、海戦に関する歴史的な知識を学びとる絶好のチャンスを彼にもたらした。1922(大正11)年7(8?)月1日、海軍少将に昇進。教育監査官となり、返り咲きに成功した。1924(大正13)年7月まで同職を務めた後、北海軽快艦隊司令官となり、続いて1925(大正14)年2月にはバルト海方面海軍司令官となった。同年4月には海軍中将に昇格し、1928(昭和3)年10月、海軍大将昇格と共に海軍総司令官に就任した。1936(昭和11)年4月、海軍上級大将、1939(昭和14)年4月、元帥。ヒトラー政権のもとでZ計画を策定し、大海軍の再建を目論むが、同計画成立後わずか8ヶ月にして第二次世界大戦は勃発。ドイツ海軍は巡洋戦艦2隻、装甲艦3隻、巡洋艦8隻という弱体な兵力のままで強大なイギリス海軍との対決を余儀なくされる。

ここで、彼は潜水艦隊司令官カール・デーニッツなどによる、潜水艦を重視した艦隊整備をという要求をはねつけてきたということがよく批判される。彼は1944(昭和19)年までイギリスとの戦いはあり得ないとするヒトラーの言葉を盲目的に信用しすぎていたというのである。しかし、潜水艦に重点を置いた艦隊整備というのは極めて特殊でバランスの取れていないものである。実際彼の回想録にもあるように軽快艦と潜水艦に注力した艦隊は完成は早く、イギリスの海上補給路に対し大いなる脅威を与えられる。一方、大艦に注力した艦隊は時間はかかるものの、完成すれば海上補給路を断つだけでなく、イギリス海軍を相手取って効果的に戦えるのである。また、軍人は政治に関与せずとの筋からすればヒトラーの言を信頼するというのも問題無く、なにより、第一次世界大戦の経験を踏まえてイギリスは数々の対潜能力を得ていたのであるから、新たな戦争時においても潜水艦が前大戦のように働いてくれるかは甚だ疑問であった。そうやって考えれば、批判は歴史を知る後世の者故のものであるかのようにも見える。しかしながら、彼のイギリス海軍との戦争は無いとのヒトラーの言葉への信用は度が過ぎすぎたものであった。彼はイギリスを仮想敵国とすることに反対したばかりでなく、対英戦の理論研究すら禁じていたのである。そして、ベルサイユ条約破棄以降のドイツを巡る情勢を見れば1944(昭和19)年までイギリス以外も含めたいずれの国とも戦火を交えることが無いと思える方が不思議である。たとえその戦争にイギリスが参加していなかったとしても一旦戦争ともなればその間大艦の建造は中止・延期されることも多く、なにより失われる戦力もあろう。そう考えればそのイギリス以外の国の海軍と満足に戦えたとしてもどっちみち1944(昭和19)年になっても対英戦に耐えうるだけの大艦隊が完成している見込みは全く無いと考えた方が良いのではないだろうか? どうであれ責任ある立場に居る者としては危機管理の観点からあらゆる可能性を検討する必要があったのではないだろうか? 少なくとも、ヒトラーは開戦まで前言を言い続けていたわけではなく、開戦の1年以上前である1938(昭和13)年5月にイギリスとの戦いの可能性について示唆し、それに対する備えをするようにと言っている。にも関わらず、そこで出てきた「備え」が、完成まで長い時間がかかるZ計画なのである(一般にはZ計画は英独海軍協定を受けて計画された建艦計画課のように思われているが、実際はヒトラーのこの言葉を受けて作られた対英戦用の建艦計画である)。また、なにより上で挙げた彼の回想録はこのZ計画で挙げられた二つの取るべき道のうちどちらを取るかをヒトラーに提示された話なのであるが、巨大兵器好きなヒトラーが軽快艦&潜水艦の道を選択するわけはなく、彼には端からヒトラーが大艦の道を取ることが分かりきった上での提示であったのだ。そればかりか、他のいかなる資料からも潜水艦を主として建造することが真面目に検討されたことを示唆するものは何もない。この回想録は戦後出版されたものであり、自身の弁解も入っている。つまり、本当は自らが下した大艦建造の決定責任をヒトラーに押し付けてしまうものなのである。つまるところ彼は海軍の正統派に属しており、潜水艦を中心とした艦隊などとても受け入れられるところではなく、ただ巨大な戦艦を中心とした艦隊のみが受け入れられるところだったのであろう。

また、彼にとって、1939(昭和14)年9月1日の開戦がまるで青天の霹靂であったかのように思われている。これは対英戦は無いという総統の言葉を盲目的に信じきってきたという姿を強調するものであるが、実際には上記のように開戦の1年以上前にヒトラーから対英戦について示唆されていたわけで、それは事実ではない。なにより、開戦直前の8月21日に装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」が、3日後にはその姉妹艦「ドイッチュラント」がそれぞれ弾薬燃料の他諸物資を満載の上でヴィルヘルムスハーフェンを出航し、さらには補給船「アルトマルク」「ヴェスターヴァルト」にそれぞれへの支援の命令も発令している。これによって開戦直後「アドミラル・グラーフ・シュペー」は大西洋を所狭しと暴れ回り、大戦果を挙げるわけで、彼にとって対英戦が青天の霹靂などというのは彼の自己弁解が功を奏しているに過ぎないのである。

第二次世界大戦において、序盤こそドイツ水上艦部隊は戦果を挙げたものの、ヒトラーは理解できない海軍作戦に次第にいらだちを募らせ、戦艦「ビスマルク」の喪失時には彼のとりなしにより何とか堪えたものの、1942(昭和17)年12月、期待していたレーゲンボーゲン作戦において何らの成果も挙げ得なかったことを知ると、1943(昭和18)年1月6日、ヒトラーは彼にこれまでの海軍の無能怠慢を一時間半にわたって休むことなく喋りまくった後、水上艦部隊の解体を命じた。ヒトラーは決して彼の責任を問うた訳ではなかったが、海軍総司令官とは言っても、実際は潜水艦隊を指揮するデーニッツと並立する水上艦隊の指揮官となっていたため、水上艦隊の解体は彼の存在意義を失わせるものであった。このため、ヒトラーの大演説が終わると彼は二人きりでの面談を求め、そこで初めて開いた彼の口から出た言葉は海軍総司令官の辞任の申し出であった。海軍のことがまるで分からないヒトラーにとっては、陸軍や空軍のように自身が積極的に人事に介入できようはずがなく、ただ軍側が任命した総司令官を信頼し続けるしかなかった。独裁者ヒトラーにとって、この総司令官は自分に小言を言うことなく、命令には従順に従ってくれるので嫌う理由ともならなかった。つまり、彼の有能さを買って海軍総司令官の職に留め続けていたというよりも首にする理由がなく、またすげ替える新しい首が果たして自分にとって彼以上なのかどうかがまるで分からないという消極的理由により留め続けていたのである。したがって、彼の辞任要求はヒトラーにとってはまったく予期せぬ出来事であり、狼狽し、再考を求めた。しかし、彼にとっては自らの存在価値が失われた今となっては辞任以外あり得ず、ただ表向きには自然の理に従い後身に道を譲って退くとの外観を保つことが可能であるとの理由から第三帝国成立十周年記念日である1月30日に辞任することで合意したに留まった。

ニュールンベルク国際軍事法廷では終身刑を言い渡されたが、彼は高齢だったため1955(昭和30)年9月に釈放される。1960(昭和35)年11月死去。

彼はエリートであった。帝政ドイツ海軍時代からエリート街道を突き進んで来た。そのため、伝統・正道に忠実でありすぎたのである。バルト海方面海軍司令官だったときには「士官の妻たるもの、ボブへアや断髪をしてはならず、口紅その他の化粧品を用いてはならず、ショートスカートをはいてはならず、爪を染めてはならない」という通達を出し、品の悪い評判を立てられている。海軍総司令官となった後の1937(昭和12)年にも士官用酒保の閉店時間の厳守、制服を着て町の酒場で飲むことの禁止、同じく制服着用時は禁煙といった不人気な命令を出している。艦隊司令長官のヘルマン・ベームとその直属の上官たるアルフレート・ザールヴェヒターとの論争では前者に一理あり、彼自身も内心ではそう思ってはいたものの、秩序を重んじ、先任であるザールヴェヒターを支持した。このような性格故、軍人は政治に関与せずとの原則を守り、ヒトラーの言に従い、ナチスの手先になることに何の疑問も持たなかったのであるし、現場からの叩き揚げであるデーニッツのような臨機応変な柔軟な思考が出来ず、ただひたすら大戦艦からなるドイツ艦隊を夢見ていたのである。