ギュンター・リュッツオウ

読み:ギュンター・リュッツオウ
外語:Günther Lutzow ドイツ語
品詞:人名,+軍人

1912(大正元)年〜1945(昭和20)年。最終階級 大佐。最終授与勲章 剣付柏葉騎士鉄十字章。出撃回数 300回以上、撃墜機数110機(うち5機がスペイン内戦、2機がMe262による四発重爆)。

"Franzl (フランツル)" のあだ名を持つ彼は、メルダースに次ぐ2人目の100機撃墜達成者であり、空軍の要職を歴任しながらも最後は一パイロットとして戦死するという劇的な生涯を送ったスーパーエース。

1912(大正元)年9月4日、シュヴァーベンのドナウヴェールト/ラウム生まれ。1931(昭和6)年に民間飛行操縦士学校に入ってその資格を得、その後ガーランドらと共にソ連領内で秘密裏に行なわれた軍事教練に参加。1935(昭和10)年の再軍備宣言により正式に空軍に入隊し、第132戦闘航空団に配属される。1937(昭和12)年3月から9月までの間、第88戦闘飛行隊第2飛行中隊長としてスペイン内戦に参加。ここにおいて5機を撃墜し、早くもエースの仲間入りを果たす。

第二次世界大戦勃発時には第1戦闘飛行学校の教官を勤めていたが、1939(昭和14)年11月5日、大尉に進級するとともに第3戦闘航空団第1飛行隊長に就任。フランス戦最中の1940(昭和15)年5月14日に第二次世界大戦における初撃墜を記録。同年8月21日には前線指揮官の若返り政策に乗り少佐に進級するとともに第3戦闘航空団司令となった。さらに9月18日には15機撃墜の功に対し騎士鉄十字章を授与されている。

独ソ戦勃発後は東部戦線に移動。1941(昭和16)年7月17日には40機撃墜に達し、20日に全軍で27番目となる柏葉騎士鉄十字章を授与されている。9月17日には72機、10月11日には92機に達し、その功に対して10月11日に全軍で4番目となる剣付騎士鉄十字章が授与されている。続く10月24日には一日で3機を撃墜して記録を101機とし、ヴェルナー・メルダースに次ぐ2人目となる100機撃墜を果たした。この記録達成を機に前線から退けられ、1942(昭和17)年6月、昼間戦闘機隊兵監に就任。その後、第1戦闘航空師団長、第4教導航空師団長などを歴任している。

しかし、1945(昭和20)年1月、シュタインホフらとともにゲーリング弾劾裁判事件を起こし、北部イタリア方面戦闘機隊司令官に左遷される。ここで、同様に戦闘機隊総監から第44戦闘航空集団長に左遷されていたアドルフ・ガーランドからお声がかかり、同部に参加。かくして前線に復帰を果たすが、敗戦直前の4月24日、生まれ故郷のドナウヴェールト上空の空戦から帰ってこず、そのまま戦死と認定された。