フランスの外人部隊。
その歴史は1831(天保2)年3月10日の設立に始まる。前年より始まったアルジェリア征服戦争でフランス軍人の死傷が余りに多いため、国民の非難を受けることを怖れた政府が外国人から成る部隊の設立に踏み切ったのである。創設時には元来傭兵として名高いスイス人やドイツ人をはじめ、スペイン人、イタリア人、ベルギー人、オランダ人、ポーランド人から構成され、兵員は1,000人弱であった。
アルジェリア征服戦争に投入されたのは当たり前であるが、戦後も当地にとどまり、アルジェリア西部のシディ・ベル・アベスに本部が置かれた。以降長らくアルジェリアを本拠とすることとなる。任務は現地の治安維持であり、1847(弘化4)年には民族運動指導者アブデル・カーデルによる対仏抵抗運動の鎮圧を行なっている。
本拠はアルジェリアに置きながらも、スペイン王位継承内乱(1835)、クリミア戦争(1853〜1856)、イタリア統一戦争(1859)、メキシコ遠征(1861〜1867)など事が起こるとその度ごとに各地に駆り出されることとなった。
こうした戦歴もあって、フランス外人部隊は増強されることとなり、アルジェリア征服が進んだ1870年代以降、兵力は6,000〜7,000人規模にまで増強された。チュニジアが保護領となると、その南西部のサイダにも拠点が置かれた。その後も普仏戦争にも参加した他、仏清戦争をはじめとして、スーダン、ダホメー、マダガスカル、カサブランカなど植民地での活躍が多い。
第一次世界大戦が勃発すると、100ヶ国を超える国からフランス外人部隊への志願者が殺到し、人員も4万5千人へと膨らんだ。その中には多数の日本人も含まれていた。戦後、仏印のイェン・バイ蜂起にも派遣され、やはり植民地の治安維持部隊として活躍した。
第二次世界大戦後、その植民地が独立戦争を起こすと、当然のように派遣される。しかし、第一次インドシナ戦争(1945〜1954)でもアルジェリア独立戦争(1954〜1962)でもその独立への動きを食い止めることは出来なかった。第一次インドシナ戦争では投入された3万人の外人部隊のうち、1万人が戦死するという激戦振りで、特にディエン・ビエン・フーの戦いではそのほとんどが戦死している。この頃の外人部隊には第二次世界大戦の敗戦で家族や財産を失ったドイツ人が多くいた。
アルジェリア独立戦争では、その最中、厭戦気分の広がる本国に対し、フランス外人部隊を含む現地軍はドゴールを大統領に担ぎ、戦争を継続することを画策。この企みは成功したものの、肝心のドゴールが独立容認へと傾いてしまったため、1961(昭和36)年、クーデターを起こすが失敗。多くの将校が逮捕された。外人部隊は元来植民地鎮圧用の部隊であるが、植民地が無くなってしまってはその役割も無くなってしまう。また、クーデターの中心的役割を果たしていたため、解体の危機であった。しかし、その緊急展開部隊としての能力を買われ、本部をマルセイユ近郊のオーバニュに移され、存続されることとなった。
以降もザイール紛争の救出作戦(1978)、PLOのレバノン撤退時の国連監視軍(1982)、湾岸戦争(1990)などに派遣されている。90年代以降は冷戦の崩壊により、ソ連や東ヨーロッパからの入隊者が増えている。彼らは母国で特殊部隊に所属していた者も多く、彼らからその持つノウハウも注入され、より高度な戦闘部隊に進化したという。
現在の兵力は8,000人。100ヶ国以上の人間が所属しており、日本人も40人ほどいる。部隊は第1外人連隊(1e RE。南仏オバーニュ。730人)、第2外人歩兵連隊(2e REI。南仏ニーム。870人)、第3外人歩兵連隊(3e REI。仏領ギアナのクールー。640人)、第4外人連隊(4e RE。カステルノダリー。590人)、第1外人騎兵連隊(1e REC。南仏オランジュ。930人)、第1外人工兵連隊(1e REG。ラン。1,000人)、第2外人工兵連隊(2e REG。サン・クリストル。870人)、第2外人空挺連隊(2e REP。コルシカ島のカルヴィ。1,160人)、第13外人准旅団(13e DBLE。ジブチ。740人)、マヨット派遣隊(DLEM。マヨット。240人)からなる。このうち、第1外人連隊は外人部隊の運営管理部隊であり、第4歩兵連隊は新兵及び下士官のための訓練部隊である。また、第1外人工兵連隊傘下のDINOPS(水中介入作戦分遣隊)と第2外人空挺連隊は特殊部隊であり、COS(Commandement des Operations Speciales。特殊作戦軍)の指揮を受ける。
近代において、傭兵になるものにははみ出し者が多く、数少ない常設の傭兵部隊であるフランス外人部隊には社会のふきだまりという感がある。そのため、元来フランス外人部隊の入隊資格は極めてゆるく、本籍・本名を隠したままでも入隊できた。しかし、犯罪者の参加が増えたため、近年は経歴調査も厳しく行なわれている。現在のフランス外人部隊への応募資格は、17〜40歳で、いかなる地域・環境においても対応できる身体的条件を有していること。また、重犯罪歴を犯していない事である。犯罪者は駄目となったが、職業・人種・信条・学校などはあいかわらず一切問われない、また、フランス語の能力もまったく問われない。応募は一年中受け付けられているが、受け付けはパリにある募集事務所で一括で行なっているため、応募者は必ず途仏しなければならない。事務所での簡単な面接の後、オバーニュの本部に連れて行かれ、ここで3週間に渡って各種適正試験が行なわれ、それにパスすれば入隊が許可される。倍率は概ね10倍である。
入隊が許可されると、カステルノダリーの訓練部隊、第4歩兵連隊に送られる。訓練期間は13週間であり、この間に基本訓練と語学教育が行なわれる。"基本" とはいうが、その訓練が熾烈なのは言うまでも無い。また、外国人であり、またならず者の多い外人部隊とあって、上官への絶対服従は過度にとも取れるほど強く叩き込まれる。このため、いわゆる鉄拳制裁も行なわれている。最終的に「フランスのために死ね」と強く叩き込まれるのである。人権が強く叫ばれる近代国の正規軍において、鉄拳制裁が容認されているのは恐らくフランス外人部隊だけであろう。このため、訓練の段階での落伍者も非常に多く、訓練期間が終わる頃には人数は1/3にまで減っている。
契約期間は5年であるが、契約期間を満了するとフランス国籍を取得することが可能である(近年3年に短縮された)。また、本人が希望すれば、さらに期間を延長することも可能である。勤続15年で年金をもらうことも出来る。
外人部隊とはいえ、将校はその99%が士官学校を卒業したフランス人で占められている。逆にフランス人は外人部隊に志願できないので、下士官兵は皆外国人である。下士官になるためには8週間にわたる上級訓練課程を経なければならない。しかし、まずその課程を受けるためには、上官の許可が必要で、部隊での勤務成績がよいごく一部の人間だけである。そして、課程を受けれたとしてもそのきつさは基本訓練の比ではなく、課程を修了できるものはさらにごく一部だけである。
2005(平成17)年5月にイラクで殺害された斎藤昭彦は21年間という非常に長期にわたってフランス外人部隊に属し、第2外人空挺連隊にも所属していた。その最終階級である上級曹長は同部隊に属した日本人としては最高の階級である。