ローター・フォン・アーノルド・ラ・ペリエール

読み:ローター・フォン・アーノルド・ラ・ペリエール
品詞:人名,+軍人

1886(明治19)年〜1942(昭和17)年。最終階級 少佐(帝政独海軍)、中将(ナチ独海軍)。最終授与勲章プール・ラ・メリート章。史上最高の商船撃沈記録保持者。

1886(明治19)年、プロイセンに移住したユグノーの子孫としてポーゼン(現ポズナニ)に生まれる。1903(明治36)年に帝政ドイツ海軍に入営し、1906(明治39)年に任官。洋上勤務を歴任後、1913(大正2)年海軍参謀長フォン・ポールの副官となる。1914(大正3)年には語学研修のために渡英していたが、第一次世界大戦の勃発により緊急帰国。新設の海軍航空隊に志願したものの、幾月も経たないうちにフォン・ポールに呼び戻されてしまった。

次に彼はUボート乗組を志願し、潜水学校に通ったのちの1915(大正4)年12月、U35の艦長に任命された。最初の作戦航海において商船3隻、二回目の作戦航海で商船3隻に加え英スループ「プリムラ」を撃沈している。三回目の作戦航海では英大型商船「ミネアポリス」(13,543総トン)の撃沈が光るものの機関故障により基地帰投を余儀なくされ、それ以上の戦果はあげられなかった。四回目の作戦航海は地中海西端で行ない、伊船「モンギベーロ」(4,059総トン)を筆頭に合計40隻56,818総トンの戦果を挙げた。1916(大正5)年7月26日から8月20日に渡る第五回作戦航海においては第四回目を更に上回る54隻90,350総トンの戦果を挙げた。これは現在に至るも一回の作戦航海における戦果としては最大のモノである。この功績により、1916(大正5)年10月11日、プール・ラ・メリート章を受章した。

その後1918(大正7)年3月にU139へと指揮艦を換え大西洋に移るまでにU35で15回の作戦航海をこなし、軍艦2隻2,500トン、商船189隻446,708トンの戦果をあげた。ちなみに、これは1916(大正5)年および1917(大正6)年の2年間の地中海における全Uボートの戦果の5分の1に相当する。

本国に帰国し、U139の艦長となり、1回の作戦航海(1918(大正7)年9月11日〜11月14日)に出撃し、アメリカ沿岸で5隻7,008総トンの戦果を挙げた。しかし、この航海の最中に終戦となり、1919(大正8)年11月14日に反乱状態のキールに帰還する。キールでは士官は見つけ次第拘束されたり、射殺されたりしていたため、彼は軍服を脱ぎ、私服姿で逃亡者のようにUボートから去ることとなった。彼の商船撃沈記録は先のU35の戦果にU139の5隻7,008総トンを加えた194隻453,716総トンである。これは第二次世界大戦におけるトップエースのオットー・クレッチマーによる44隻266,629トンから見ると倍近い数字であり、現在も(そして永遠に破られないと思われる)史上最高記録である。

戦後は巡洋艦「エムデン」の艦長(1928(昭和3)年〜1930(昭和5)年)、トルコの海軍大学で教鞭をとっていた(1932(昭和7)年〜1938(昭和13)年)。1939(昭和14)年に帰国し、1940(昭和15)年に中将昇進。第二次世界大戦では司令官として活躍していたが、部隊指揮のため地中海に移動中の1942(昭和17)年2月24日、パリのル・ブールジェで航空機事故により死去した。