1885(明治18)年〜1944(昭和19)年。最終階級 元帥海軍大将(戦死後昇進)。聯合艦隊司令長官。海軍兵学校第34期。
1885(明治18)年9月25日、古賀鉄六の長男として佐賀県に生まれる。佐賀中学校を卒業し、1903(明治36)年12月17日、海軍兵学校第34期生として入校、1906(明治39)年11月19日に卒業した。
1909(明治42)年に彼が分隊士で、少尉候補生を乗せる遠洋航海訓練艦「宗谷」に乗り込んだときの分隊長が大尉になったばかりの山本五十六であった。ここで気脈を通じた二人の仲は深く、山本は彼を高く評価していた。
彼はロンドン海軍軍縮会議の時、海軍省首席副官だった。彼は条約派として知られており、事態が統帥権干犯問題に発達すると山梨次官、堀悌吉軍務局長を裏で支えた。この時、「我が国の財政から見て、アメリカと軍備競争などしたら、六割以下に蹴飛ばされるよ。六割だ七割だとそんなことで喧嘩するのは馬鹿らしい話だ。どうせ戦争が始まれば比率なんてものは直ぐにぶち壊れる。強い奴には敵わない。仲良くすることだ」と、当時海大教官だった井上成美大佐(当時)に語った。これに対し、人物評に定評のある井上は彼を「非常にものの判断の正しい人」と評している。しかし、山本や井上が飛行機の価値を見抜き、航空主兵を唱えていたのに対し、彼はあくまでも海戦における主役は戦艦であると主張し、彼が第二艦隊司令長官であったときに起こった航空艦隊建設運動に対しては反対している。
山本が戦死するとその後任として1943(昭和18)年5月、聯合艦隊司令長官になった。陸上航空兵力は度重なるソロモン方面での航空戦で疲弊し、頼みの艦隊航空兵力である第三艦隊航空部隊も「い」号作戦における損害が甚大なことをはじめ、此の頃既に海軍は満身創痍であった。この状況に対し、彼はトラック島の聯合艦隊司令部で開いた就任後初の首脳部会議で、「既に三分の勝ち目も無い」という発言をし、井上の評価通り現状判断は正しかった。
しかし、アメリカ軍は彼に新しい作戦計画をじっくり練るだけのゆとりはくれなかった。就任直後の5月のアッツ島守備隊玉砕に始まり、6月にはソロモン、ニューギニア方面でも大攻勢をしかけてきた。そうやってアメリカ軍が大攻勢をかける中、急ピッチで策定されたのが「絶対国防圏」であり、それを守るための「Z作戦指導腹案」であった。この中で、絶対国防圏に指定された各地を守る守備隊は聯合艦隊主力が救援に来るまで陣地を死守することとなっていた。
10月中旬、アメリカ機動部隊がウェーキ島方面来攻の兆しありとの情報により、聯合艦隊水上部隊の主力を率いてトラックを出撃したが、空振りに終わる。ここで手痛かったのが、乏しかった残り燃料を使い果たしてしまったことである。このため、聯合艦隊水上部隊は全く身動きが取れなくなり、航空部隊に頼ることになった。これが「ろ」号作戦であった。しかし、「ろ」号作戦は、山本が行なった「い」号作戦以上の手痛い損害を出し、再建途上だった艦隊航空兵力の養成は一から出直しとなり、こちらも当分身動きが取れなくなってしまう。
こうして完全に手も足も抑えられたところで、11月21日にアメリカ軍はギルバート諸島のタラワ、マキンに上陸し、日本軍守備隊は全滅する。そうすると、次に狙われるのは聯合艦隊の停泊しているトラックを含む東カロリン群島であり、聯合艦隊は味方の救援に赴けないどころか、自信の身が危険に曝されることとなってしまった。年が明けて1944(昭和19)年2月1日にアメリカ軍はマーシャル諸島のルオット、クェゼリンに上陸を開始し、日本軍守備隊は全滅。策定したばかりの絶対国防圏は早くも破綻をきたし、トラックへの圧力は高まっていた。この中彼は2月7日、聯合艦隊主力のトラック撤退を命じ、艦隊は10日にパラオへと移動していった。日本海軍の外地最大の基地、トラックがアメリカ機動部隊の大空襲に遭い基地としての機能を喪失したのはそれから僅か1週間後のことである。
こうして安全な地パラオに来たはずであったが、3月30日には早くもパラオも空襲に遭った。初めて空襲の激しさを身をもって体験した彼及び福留参謀長が艦船に対する航空機の優位を認識したのはこの時であるが、気がつくのは遅すぎた。翌31日の空襲も終わると中島情報参謀はパラオへの空襲は当分ないであろうと所見を述べたが、初めて知った空襲の激しさに恐れをなした福留参謀長は色々と口実をつけ、聯合艦隊司令部のダバオへの移転を決めてしまった。
こうして、2機の二式大艇に分乗して慌ただしく31日の夜、パラオを後にした。当時、パラオとダバオの間には低気圧があり、荒れ模様の天候となった。そのため、一番機と二番機はパラオを離水すると同時にお互いの位置を見失い、単独飛行となった。こうして二番機はセブ付近に不時着し、フィリピンゲリラに捕らわれ、一番機はそのまま行方不明となった。所謂「海軍乙事件」である。彼の乗った一番機の消息はその後もようとして知れず、捜索は4月22日に打ち切られ、彼を含む搭乗員全員は殉職とされた。このため、彼は靖国神社に合祀されず、現在も関係者から不満の声が聞かれる。
前任の山本五十六に対して戦死時に剣付柏葉騎士鉄十字章が授与されていた関係もあって、殉職後の5月12日には同盟国のドイツより柏葉騎士鉄十字章が追叙されている。
コラム(略歴)
明治18. 4.25 佐賀県に生まれる
36.12.17 海軍兵学校(第三十四期)入学
39.11.19 〃 卒業
40.12.20 海軍少尉
44.12 海軍大尉
45. 5 海軍砲術高等科学生
大正元.12 「鹿島」分隊長
2.12 第二艦隊参謀
3.12 「香取」分隊長
4. 4 「鹿島」分隊長
12.13 海軍大学校甲種(第十五期)入学
6.11.29 〃 卒業
12. 1 海軍少佐
7. 3 海軍省軍務局第一課員
9. 7 フランス駐在
11.12 海軍中佐・「北上」副長
12. 6 海軍大学校教官
14.10.20 聯合艦隊首席参謀
15.12. 1 海軍大佐・駐フランス大使館付武官
昭和 2. 4.26 ジュネーブ軍縮会議随員
3.11. 1 帰朝命令
4. 5. 1 海軍省首席副官
5.12. 1 「青葉」艦長
6.12. 1 「伊勢」艦長
7.11.15 軍令部第三班長
12. 1 海軍少将
8. 9.15 軍令部第二部長
10.11.15 第七戦隊司令官
11.12. 1 海軍中将・練習艦隊司令官
12.12. 1 軍令部次長
14.10.21 第二艦隊司令長官
16. 9. 1 支那方面艦隊司令長官
17. 5. 1 海軍大将
11.10 横須賀鎮守府司令長官
18. 4.21 聯合艦隊司令長官
19. 3.31 殉職, 元帥海軍大将
19. 5.12 騎士鉄十字章, 柏葉騎士鉄十字章追叙