海軍兵学校 (日本)

読み:かいぐんへいがっこう
品詞:団体組織名,@組織

日本海軍において、将校教育を行なっていた学校。略して「海兵」とか、その所在地から「江田島海軍兵学校」や単に「江田島」などとも言う。

海軍兵学校の歴史は1869年10月22日(明治2年9月18日)に東京築地の旧幕府の軍艦教授所跡地に「海軍繰練所」が設置されたことに始まる。翌年11月4日、「海軍兵学寮」と改称されたのを経て、1876(明治9)年8月31日に「海軍兵学校」となった。

ところで、明治政府は幕末に長崎海軍伝習所などでオランダ式で学んだ日本人や少数の外国人教官では体系的な海軍教育は出来ないと判断。日本の海軍教育を英国式に統一するため、イギリス政府に交渉し英国海軍教官の派遣を要請していた。イギリス政府はこの要請に応え、佐官1名、各科の士官5名、下士官12名、水兵16名の計34名よりなる教官団を来日させた。これは1873(明治6)年7月のことで、団長の名(アーチボールド・ルシアス・ダグラス少佐)をとって、ダグラス教官団と言われている。この頃の生徒は明治維新を体験した豪傑肌の生徒が多く、「生徒に告ぐ自今庭園内に小便するを禁ず」などという禁令を出さないとならないほどであった。これに対し、ダグラス少佐は「士官である前にまず紳士であれ」という英国海軍士官流の紳士教育を導入し、たちまち改善された。また、学科は英語と数学に重点を置いて、教科書も講義もすべて英語という教育方針を打ち出した。これは外国語はドイツ語とフランス語で英語は全く教えていなかった陸軍士官学校とは随分な違いであり、後に陸軍が親独、海軍が親米英と傾く一因にもなっている。そして、ダグラスは学科だけでなく体育教育にも力を入れ、洋式体育と遊戯を導入した。日本に運動会(海軍兵学校では「競技会」と呼んでいた)とサッカーを持ち込んだのも彼であった。海軍兵学校から外国人の軍人教官が消えるのは、ダグラス教官団の一人であったF・W・ハモンド大尉が解約された1890(明治23)年7月28日のことであった。

1883(明治16)年には東京で最初の赤煉瓦造りといわれる生徒館が新築落成し、設備も整ってきたように見えたが、1885(明治18)年1月に海軍兵学校次長兼教務総理に補せられた伊地知弘一中佐はイギリス留学の経験から海軍兵学校の僻地への移転を強く主張。この年の5月に呉に鎮守府が置かれたこともあって、そこからほど近い江田島に移転されることになった。6月から視察団が訪れ、11月新校舎建設工事に着工。1888(明治21)年4月に各講堂が完成したことを受けて、同年8月1日をもって移転され、同月13日から開校された。そして築地の跡地は現在は中央卸売市場となっている。

この築地時代に卒業したのは14期までで、15期からは江田島での卒業生となる。ちなみにこの15期にはのちに軍神となる広瀬武夫がいる。彼は江田島北方にそびえる古鷹山に在校中に100回登ったとされ、後世の生徒の目標となっているが、15期が江田島で過ごしたのは9ヶ月弱に過ぎず、その伝説が本当ならば彼は週に3回以上古鷹山に登っていたことになる。

1894(明治27)年の日清戦争時には21期までの約700名が卒業しており、うち300名ほどが佐官クラスの中堅将校となっていた。日清戦争には勝利したものの、三国干渉によって日本は遼東半島を諦めねばならなかった。この「臥薪嘗胆」の言葉のもと、海軍軍備も六六艦隊建造計画が承認され、大拡張がはじまった。器が増えるとなれば当然それを動かす「人」も増大せずにはいられず、日清戦争終結直前に入校した25期が36名だったのに対し、26期62名、27期123名、28期116名、29期137名と一挙に100人超となり、30期以降は200名弱にまで達した。この人数増大に対処するために、生徒食堂の増設と後に第2生徒館となる温習所が1900(明治33)年11月に完成している。

1904(明治37)年に発生した日露戦争時にはイギリスで教育を受けた東郷平八郎聯合艦隊司令長官、海軍兵学寮在学中にアメリカに留学し、アナポリス海軍兵学校を卒業した瓜生外吉第四戦隊司令官、海兵士官学校卒業の武富邦鼎第五戦隊司令官以外は海軍兵学校卒業生によって戦われた。またこの戦いには1904(明治37)年12月14日に卒業予定だった32期は卒業を1ヶ月早められ、少尉候補生として戦場へと赴いている。この32期には大東亜戦争時に聯合艦隊司令長官となる高野(のち山本)五十六が居た。彼は日本海海戦において身辺で敵弾が炸裂し、半身に大火傷を負ったばかりか、左手の指を二本失っている。日本はこの後も第二次世界大戦までの間に第一次世界大戦に参加しているが、大半の人間にとっては他人事であり、この32期を境に戦争を知らない世代へとなる。このことは第二次世界大戦へ日本が突入していく道を辿る上で記憶にとどめておくべきことだろう。また、日露戦争後、戦争帰りの血気盛んな人間が教官として兵学校へと入ってきた。戦争の興奮のさめやまぬ彼らによってスパルタ式訓練が実施され、鉄拳制裁も盛んに行なわれるようになった。これも日露戦争前後での大きな変化であろう。

1912(明治45)年6月、山下源太郎校長の「器以上に器を動かす人が大事」という強い主張により、小型艦1隻分にも相当する30万円もの大金を投入して大講堂が着工された。大講堂の必要性は1905(明治38)年頃から具申されていたが、容易に予算の承認をえられず、1911(明治44)年になって鎮遠、八重山、赤城の3艦が廃艦払い下げとなったのを財源としてようやく承認されたのであった。またこのように強硬に設立が唱えられた裏には海軍兵学校を再び東京に移転しようという動きを封じる目的もあったと言われている。なお、この大講堂は国会議事堂に使われたのと同じ倉橋島の花崩岩をもって建造されている。ちなみに、この山下源太郎は3年4ヶ月もの長期に渡って校長を務めているが、月に1、2回程度校長宅を解放して、握り飯を大量に用意させて生徒を自由に出入りさせるなど生徒と親しく接し、後年24組もの縁談を手がけるなど「江田島の名校長」と称されている。後に彼の薫陶を受けた元生徒たちによって彼の銅像が大講堂の前に設置されたが大東亜戦争中に供出されて今では台座しか残っていない。大講堂が今も存在することと比べると少し寂しい。

第一次世界大戦終結後、日米英の間で建艦競争が激化した。日本も加藤友三郎海相のもと八八艦隊計画が推し進められ、それに伴い海軍兵学校生徒採用数も1917(大正6)年入学の48期が180名、49期が195名と急増し、50期〜53期に至っては300名規模にまで増加した。この生徒の急造により各設備が増設されたがそれでも狭く、生徒は食堂において右手のみを使って食事すべしという不文律が生れたのもこの時である。

ところが、1921(大正10)年にワシントン海軍軍縮会議が開かれ、八八艦隊もおしゃかとなると海軍兵学校生徒採用数も急増していた反動で54期ではいきなり51名にまで激減している。この51名とて本来は採用見合わせとするところを期が欠けては海軍兵学校の伝統が中断してしまうということで最少人数が採られたに過ぎないのである。また53期までの入校済みの生徒に対しても扱いが厳しくなり、ちょっとへまをすると直に留年させられ、自主退校者も続出した。このため、293名入校の51期が255名卒業、274名入校の52期が236名卒業と減員し、一方51名入校の53期が62名卒業となっているのはこのためである。さすがにこの様な極端に少ない採用人数は次の55期までで、56期からは100名強となっている。大東亜戦争で最も人数が必要とされる中級指揮官となるのはこのあたりの期であるが、この処置によって戦争中に海軍は人手不足に悩まされることとなる。

1928(昭和3)年12月、永野修身が海軍兵学校校長に就任すると、大使館付武官として米国に駐在していた時に感銘を受けたダルトン・プランによる新教育体制がとられるようになった。この教育制度の骨子は生徒は教えられるのではなく、自ら積極的に学ぶという「自学自習」であり、これを徹底させるために、生徒が好きな事を学べる「自選時間」が設けられ、修業年限も58期から8ヶ月延長され11月卒業となった。しかし、この制度は「永野校長の頭を叩けば自啓自発の音がする」とまで言われた永野校長の強い力に寄るものであって、彼が退任すると自選時間も無くなり、元の状態へと戻っていった。

1932(昭和7)年4月24日の軍人勅諭下賜50年記念日に海軍兵学校教頭兼監事長の三川軍一の起案により、有名な五省が導入された。以降生徒は夜の自習止め5分前のラッパ「G1声」が流れると、当番の1号生徒が「軍人勅諭」5箇条に続いて「五省」を各項目一つ一つゆっくり拝誦。他の生徒はこれに合わせて黙誦し、その日一日の自らの行動や言動を反省自戒することとなった。

1931(昭和6)年に満州事件が勃発し、1933(昭和8)年には満州国を認めないというリットン報告書採択を不満として国連を脱退。国際的な孤立を深めるようになると生徒採用数も増加するようになる。生徒採用数は55期から63期までは130名前後で あったが、1933(昭和8)年4月入校の64期が170名、65期が200名、66期と67期は共に240名と次第に増加されていった。同時に63期から在校年限が4ヶ年となっていたのをわずか3期で取りやめ、66期は6か月、67期、68期は8ヶ月卒業が早められ、69期で3ヶ年となった。

この採用者増大には航空要員の増加も大きな原因であり、53期から行なわれていた霞ヶ浦航空隊への1ヶ月入隊による航空教育も66期からは3ヶ月となり、航空科への採用人数も53期9名、54期15名、55期28名から次第に増加して、68期では100名を突破するようになっていた。67期にはラバウルのリヒトホーフェンとも言われ、海軍兵学校出身者ではトップとなる27機を撃墜している笹井醇一少佐がいる。

戦争の足音が近づいてきた1938(昭和13)年末には外人の英語教師が姿を消し、1940(昭和15)年入校の72期からは英語以外の独、仏、支、露語の授業が廃止された。外国人教官はまだしもこれから共にあるいは敵として戦う国の言語教育が廃止されるとはなんとも奇妙であるが、これが当時の日本全体の風潮でもあった。70期は69期と同じ1938(昭和13)年に入校するという入るときから慌ただしかったが、卒業も1941(昭和16)年12月下旬に予定されていた卒業式が急遽11月15日に繰り上げられ、直ちに全員艦船部隊配属を命ぜられたため、特別急行列車で横須賀に行き出撃直前の艦に深夜着任したものや、洋上移乗の末の着任するものが出るなど慌ただしいものであった。

1941(昭和16)年12月8日に大東亜戦争が始まっても当日の午後に草鹿任一校長が全校生徒及び学生を大講堂に集めて「宣戦布告の御詔勅」を奉読し、訓示を行なった以外は平常どおり課業が行なわれていった。1942(昭和17)年11月10日、海軍兵学校史を語る上で外せない校長、井上成美が着任する。井上が着任したときの生徒からのウケは最悪であった。彼は戦争相手である親米英派であったし、規律にやかましく、その上前職の第四艦隊司令長官では「負けてばかり」であったからだ。前任の草鹿任一が人間味豊かな人間であったのもマイナスに作用していた。井上成美の教育方針は戦争に間に合うように即席の教育を施すことではなく、戦争が終わった後にも役に立つ人間教育を施すことにあった。これは着任直後の11月14日に卒業していく71期生に卒業式前日に語った訓示にも表れている。この中で井上は「余裕アラバ夫々志ス所ニ依リテ他日ニ備ヘ修養ニ努メル」と言っているが、この「他日」が何を意味するのかこの時に気がついた生徒は殆ど居なかった。この様に生徒が井上の偉大さに気がつくのは戦後のことであった。

井上がまず行なったのは教育参考館に掲げられている歴代海軍大将の写真の除去である。その中には日本を現在の状況に追い込んだ「国賊」も居るのでその様な国賊を生徒に敬仰させるわけには行かないということであった。この様なことは外部からの訪問者にも生きていた。恒例となっていた平泉澄東大教授の聴講は皇国などの精神論であるので、教官にのみ聴講させ生徒には聴かせなかった。永野修身軍令部総長が元帥府に列せられ、郷里の土佐に帰る途中に寄った際も一場の訓話をお願いするのが慣例であったのに、井上はそれを頼まなかった。大本営報道部の平出英夫大佐の講演の際も持ち時間に厳重な制限を課しておざなりの話しかできないようにしている。その一方、通常であれば「たるんどる」「世間かぶれ」と眉をひそめられがちな大学出の教官である予備学生の言動に対しては逆に、自由に振る舞わさせている。

井上の姿勢の一つに英語教育の重視があった。英語を使用すると非国民扱いされるような当時の風潮であり、陸軍では大東亜戦争突入前の時点で早々と陸軍士官学校の採用試験科目から英語を除外してしまっていたこともあって、秀才だが英語が苦手な受験生が海軍兵学校を敬遠して陸軍士官学校へと流れることを嫌って、目前に迫っている75期の採用試験で海軍兵学校でも除外しようということになった。これには150人の教官のうち、6人の英語科の文官教授以外の全員が賛成したにも関わらず井上はそれを良しとせず75期以降も英語の試験が課せられることとなった。「英語がこんにち世界の公用語として使われているのは明らかな事実であって、海軍の将校たらんとする人間にとって必要不可欠である。外国語一つ真剣にマスターする気のない海軍の方でこれを必要としない」ということであった。また、井上は75期から英英辞典を使った英語の授業を行なわせようとし、そのために5千部もの英英辞典購入費を気前よく出している。

そして、彼は決してユーモアを解しない人間では無かった。生徒が一日に一回は腹の底から笑える機会をつくって欲しいと教官に依頼している。

また彼は修年年限短縮に大反対している。教育局長の矢野志加三少将と共に井上は大反対し、1943(昭和18)年4月16日の会議では何とか阻止したが、11月には済し崩しに通り、73期から8ヶ月修年年限が短縮されてしまっている。しかし、それ以上の短縮には断固として反対し続けた。

ところで、生徒採用数はその後も上昇を続け、この73期では904名、74期はついに1,028名と大台を突破している。生徒館や各科講堂が急造されたものの、それだけで対処できる人数ではなく、分校が設けられることとなった。これが1943(昭和18)11月15日に岩国航空隊内に設けられた岩国分校で、73期160名、74期230名が移った。さらに1944(昭和19)年10月1日、本校の北2kmの大原地区に大原分校が設けられ、74期生280名、75期600名が移った。また、それらとは別に舞鶴にあった海軍機械学校が機械科統合にともなって、1944(昭和19)年9月30日、海軍兵学校舞鶴分校となっている。

海軍兵学校最後の期となる78期4,048名は予科であった。これまでの本科だけでは在校期間中に修了させることが困難となったため、1886(明治19)年に廃止されていた予科を復活させたのである。78期の入校日1945(昭和20)年4月3日が77期と同時であるばかりかそれよりも早い(77期の入校日は1945(昭20)4月10日)という逆転現象が生まれているのはそのためである。この予科生徒を受け入れるため、更に新たに長崎県東彼杵郡江上村の針尾島の針尾海兵団の隣に針尾分校が設けられた。しかし、アメリカ軍の九州上陸が懸念されたためで、山口県防府市の海軍通信学校校舎へ移転することとなり、昭和20年7月8日から各部ごとに移転を開始。そのため同月15日以後は事実上防府分校となってしまっている。

この頃から後方に居るはずの彼らにも直接生命の危険が及ぶようになっていた。まず、1945(昭和20)年3月19日には江田島に初空襲があり、機銃掃射によって74期生2名、76期生1名が戦死となった。特に74期生は11日後に卒業式を控えての出来事であった。7月13日にも再度の空襲を受け、機銃掃射により75期生が1名戦死。防腐に避難したはずの針尾分校の人間も空襲を受け、さらに赤痢患者が発生。終戦までに14名が死亡し、30名の重症患者は復員不能という悽惨な状況であった。

1945(昭和20)年8月15日11時30分(@146)、普段よりも15分早く「食事ラッパ」が鳴った。不思議に思う生徒たちに対して当直監事は「本日、1200から天皇陛下の御放送がある。全員急いで食事をすませて、第二種軍装に着替えておけ」と命令した。12時からの玉音放送の後、13時に副校長大西新蔵少将からくれぐれも自重するようにとの訓令が出された。休暇命令が出され、8月21日に四国地方出身生徒が「第1まいづる」に乗船して江田島を離れたのを皮切りに同月24日までにほぼ生徒全員が復員していった。10月1日、75期生徒には卒業証書が、76期、77期、78期生徒には修業証書が渡され、10月20日付けをもって廃校となった。

この77年間の歴史における卒業生は11,182名にのぼり、戦死者数も4,012名にのぼっている。72期は337名(卒業者625名)が戦死しており、期別では最多であった。また68期と71期はそれぞれ288名中191名、433名中287名と同期生のうち2/3が戦死している。さらに73期にいたっては卒業したのが1944(昭和19)年3月と終戦までに1年半しかないがこの間に283名が戦死しており、2日に1人の割合で同期生が戦死していっている計算となり、一番悲惨なクラスだったと言えるだろう。一方、終戦時の在校生は15,129名でなんと77年間の卒業生より4,000名も多い。彼らや71期から75期までの井上が校長をしていたときに生徒で、その影響を少なからず受けた人間達が各界の要人となり、戦後の日本復興の原動力となっているのである。まさに井上の狙い通りであったと言えよう。

なお、海軍の消滅と共に海軍兵学校の歴史も幕を閉じたが、その跡地には海上自衛隊の幹部候補生学校が作られ、その伝統は今も生きている。

ところで、日本陸軍において将校教育を行なっていた学校は陸軍士官学校である。そのため、海軍兵学校は士官、下士官、兵という階級の中の「」を教育する学校であり、それとは別に海軍士官学校というものが存在すると勘違いする人がいる。しかし、海軍兵学校の「兵」とは兵科の「兵」なのである。これは士官は士官でも海軍経理学校や海軍機関学校など兵科以外の士官を教育する学校も存在し、それとの区別をするための名称なのである(機関科将校の学校=>機関学校、兵科将校の学校=>兵学校)。そのため、上述のように機械科が兵科に編入されて後に海軍機械学校が海軍兵学校舞鶴分校となったのはしごく当然のことなのである。

この江田島海軍兵学校はイギリスのダートマス海軍兵学校(BRNC)、アメリカのアナポリス海軍兵学校(USNA)と並んで、三大海軍兵学校の一角でもある。

コラム(歴代校長)
初代 兵部大丞 川村 純義    1870.10-
 2代 少将     中牟田倉之助 1871.11-
 3代 大佐     松村 淳蔵    1875. 8-
 4代 中佐     伊藤 雋吉    1876. 2-
 5代 大佐     松村 淳蔵    1876. 8-
 6代 少将     中牟田倉之助 1876.10-
 7代 大佐     仁礼 景範    1877. 4-
 8代 大佐     伊藤 雋吉    1881. 6-
 9代 少将     松村 淳蔵    1882.10-
10代 中将     伊藤 雋吉    1884. 1-
11代 少将     松村 淳蔵    1885.12-
12代 少将     有地 品之允  1887. 9-
13代 少将     本山  漸     1890. 9-
14代 少将     山崎 景則    1892. 7-
15代 少将     坪井 航三    1892.12-
16代 大佐     柴山 矢八    1893.12-
17代 大佐     吉島 辰寧    1894. 7-
18代 大佐     日高 壮之丞  1895. 7-
19代 少将     河原 要一    1899. 1-
20代 少将     東郷 正路    1902. 5-
21代 少将     富岡 定恭    1903.12-
22代 少将     島村 速雄    1906.11-
23代 少将     吉松 茂太郎  1908. 8-
24代 少将     山下 源太郎  1910.12-
25代 中将     有馬 良橘    1914. 3-
26代 中将     野間口 兼雄  1916.12-
27代 中将     鈴木 貫太郎  1918.12-
28代 中将     千坂 資次郎  1920.12-
29代 中将     谷口 尚真    1923. 4-
30代 少将     白根 熊三    1925. 9-
31代 中将     鳥巣 玉樹    1927. 4-
32代 中将     永野 修身    1928.12-
33代 中将     大湊 直太郎  1930. 6-
34代 少将     松下  元     1931.12-
35代 少将     及川 古志郎  1933.10-
36代 中将     出光 万兵衛  1935.12-
37代 中将     住山 徳太郎  1937.12-
38代 中将     新見 政一    1939.11-
39代 中将     草鹿 任一    1941. 4-
40代 中将     井上 成美    1942.10-
41代 中将     大川 内伝七  1944. 8-
42代 中将     小松 輝久    1944.11-
43代 中将     栗田 健男    1945. 1-

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