国防長官の下で、三軍作戦の基本的戦略の調整と実施を任務とし、大統領と国家安全保障会議に最高の軍事的助言を行なう機関。陸軍参謀総長、海軍作戦部長、空軍参謀総長、海兵隊司令官の各軍の制服組最高位ポストおよび議長、副議長の6名からなる。JCS。
アメリカ軍における最初の統合参謀本部は1903(明治36)年に設置された統合会議(Joint Board)にはじまる。直前に行なわれた米西戦争の結果、アメリカ初の海外植民地であるフィリピンを持つこととなった。フィリピンは遠く太平洋の彼方に浮かぶ島であるため、その防衛には陸海軍が協同で当たらねばならない。このために、陸海軍両長官の諮問機関として設置されたのである。しかし、この統合会議は権限がはっきりしない上にフィリピンの防衛拠点をどこに置くかで陸海軍の意見が一致せず、1908(明治41)年に事実上解散してしまっている。
第一次世界大戦が終結し、カリフォルニアの日系人移民問題や中国問題で日米対立が先鋭化し、アメリカの仮想敵国が日本となった。そのため、フィリピン防衛が重要な問題となった。ここで、先の統合会議の教訓から権限とメンバーを明確にした新たな統合会議が1919(大正8)年に設置された。
第二次世界大戦の勃発が秒読み段階となった1939(昭和14)年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領は陸海軍両長官の諮問機関であった統合会議を自分の直接の軍事輔弼機関とした。
1941(昭和16)年12月、日本軍による真珠湾攻撃によってアメリカ軍は第二次世界大戦に参戦した。これに対して、イギリス首相のチャーチルは今後の戦争指導についてルーズベルトと協議するため、12月22日軍首脳を引き連れてワシントンにやってきた。翌年1月14日まで続けられたこの「アルカディア」と呼ばれた会談によって、米英両軍の軍首脳による連合参謀本部が設けられる事となった。
ここで、この統合参謀本部を構成するためのアメリカ側組織が急遽編成されることとなった。メンバーはスターク海軍作戦部長、キング合衆国艦隊司令長官、マーシャル陸軍参謀総長、アーノルド陸軍航空隊司令官の4名であった。海軍側が2名いるのは海軍を代表するポストが2つあり、両者に上下関係がなく、まったくの並立した存在であったからである。陸軍側が2名いるのはイギリス側のメンバーにポータル空軍参謀総長がおり、それに相当するポジションの人間をアメリカ側も用意しなければならなかったからである。こうして統合会議は統合参謀本部として新たにスタートすることとなった。
スタートした時点では上記のとおりくしくも陸海軍2名ずつであったが、海軍の方は2名の並立体制であったためそうなったわけであり、戦争指導その物に祖語を来たす可能性があったので、一ヶ月後、スターク海軍作戦部長は更迭され、キング合衆国艦隊司令長官が海軍作戦部長を兼任することとなった。このため、陸軍の2名に対し、海軍は1名となってしまった。これではバランスが悪いので、議長ポストを設けて海軍出身者をその職に就ければ再び2名2名となり、バランスがとれる。また、大統領との連絡窓口とすれば大統領との距離も縮まり、作戦指導がよりスムーズに行なえるのではないかとマーシャル陸軍参謀総長は考えた。ルーズベルトもキングも議長が必要とは考えていなかったが、マーシャルが強く求めたためその設置は承認されることとなった。議長は会議のメンバーの一員に過ぎず、軍への指揮監督権は保持していない。あくまでも連絡・調整役に過ぎなかった。マーシャルがこの議長職に求めたのはスタークの前の海軍作戦部長であったリーヒ海軍大将であった。1942(昭和17)年7月20日、リーヒは議長職に就任し、以降統合参謀本部のメンバーはリーヒ、マーシャル、アーノルド、キングで第二次世界大戦終了まで変わらなかった。その4名のうち、リーヒは調整役に徹し、自分の意見を言うことはなかった。また、アーノルドは自分が掌握している陸軍航空に関する事項以外では意見を言うことはなく、無条件でマーシャルを支持した。このため、統合参謀本部は専らマーシャルとキングの言い合いで終始し、リーヒがそれを調整するという構図であった。
戦後間も無く、議長職の名称が改められた。リーヒの役職名は正確には"Chief of Staff to the Commander in Chief of the Army and Navy" であったが、彼の退任後に "Chairman of the Joint Chiefs of Staff" とその役割により相応しい名称に改められることとなったのである。1947(昭和22)年に空軍が陸軍から独立すると、そのメンバーの役職も陸軍航空隊司令官から空軍参謀総長となった。また、海兵隊司令官は当初はメンバーではなく、必要に応じて招かれるだけのアドバイザーであったが、後に正式メンバーとなった。
統合参謀本部の最初の改編は1947(昭和22)年の国家安全保障法によってである。第二次世界大戦において、統合参謀本部は前線部隊を運用する上での中心的存在であったが、同法によって作戦計画の立案および助言者となった。にも関わらず、1948(昭和23)年のキーウエスト協定によって再度統合作戦本部のメンバーが直接戦闘部隊を指揮することを可能とした。議会は1953(昭和28)年の国家安全保障法の改正でこの権限を廃止した。最終的にこの問題を解決したのは1986(昭和61)年のゴールドウォーター・ニコルス国防総省再編法によってである。同法によって、戦闘部隊への指揮は直接大統領及び国防長官から戦闘部隊に送られ、統合参謀本部を経由しなくなった。また、同法によって統合参謀本部議長を補佐する副議長職が新設されることとなった。