軍旗

読み:ぐんき
品詞:名詞

日本陸軍において、連隊を設立する際に天皇から下賜された旗のこと。連隊の旗であったことから連隊旗とも言う。旭日旗が充てられた。常備軍旗と後備連隊に下賜される後備軍旗とがあった。

軍旗は連隊が一致団結するための精神的な拠り所であった。軍旗は連隊にとって天皇の象徴であり、その分身として大切に扱い、どんなことがあっても敵に奪われてはならないものとされた。軍旗は天皇から下賜されるため、ボロボロになっても交換することは無く、明治以来の歴戦の連隊では総しか残っていなかったが、それは連隊の偉大なる先輩達の輝かしい戦歴によるものとされ、一層崇拝された。

ただし、第二次世界大戦末期には連隊が壊滅ないしそれに近い状態になるなど軍旗を喪失するケースが後を絶たなかった。そこまで時代を下らなくとも、1877(明治10)年2月22日には歩兵第14聯隊が西南の役で早くも喪失している。その連隊長心得をしていた乃木希典少佐(後大将)はこれにひどく責任を感じ、自害しようとしたが、親友の児玉源太郎少佐(後大将)に止められ果せなかった。しかし、彼はその負い目を背負い続け、1912(大正元)年9月30日明治天皇を追って殉死した際にその遺言の中に「明治十年の役に於いて軍旗を失ひ、その後死所を得度心掛侯も其の機を得ず」とあった。

初めて軍旗を下賜されたのは近衛歩兵第1、第2聯隊であり、1874(明治7)年1月23日に日比谷操練場で、連隊長の前に対し明治天皇から「近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク 仍テ今軍旗一旒ヲ授ク 汝軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」との勅語を賜い、式部長官の捧げる軍旗を執って、手づるから連隊長に授与された。連隊長は謹んで拝受した後に「敬テ明勅ヲ奉ス 臣等死力ヲ渇シ誓テ国家ヲ保護セン」と奉答した。

引き続いて同年12月18日に歩兵第8〜10聯隊が、翌19日に歩兵第1〜3、6聯隊が授与され(歩兵第6聯隊は本来であれば前日に授与されるはずであったが、聯隊旗手の腹痛のため延期された)、以降連隊が編成される度に同様の軍旗授与式が執り行なわれた。ただし、天皇の勅語は1896(明治29)年以降は「歩兵(騎兵)第何聯隊ノ為メ軍旗一旒ヲ授ク 汝軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ我帝国ヲ保護セヨ」と改正されている。

ちなみに、本来であればこの近衛歩兵第1、第2聯隊への軍旗授与式に先んじて前年の12月14日に歩兵第1聯隊に親授されることになっていたところが、その直前の12月12日に急遽延期となり、順番が入れ替わってしまったものである。歩兵第1聯隊への親授が延期されたのはその直前の10月24日に征韓論に敗れて辞職し、帰郷してしまった西郷隆盛を追って多数の薩摩出身近衛兵が集団離隊し、近衛聯隊がその体制を維持できなくなってしまった。そのため、その穴埋めに東京鎮台兵の一部を引き抜いて近衛兵に充当してしまったため、今度は東京鎮台麾下の部隊の方が体制を維持できなくなってしまていたからである。

軍旗のデザインが正式に制定されたのは1879(明治12)年12月2日の太政官布告第130号(「陸軍歩騎砲三兵聯隊軍旗並ニ歩兵大隊旗及ヒ同嚮導旗別紙図面ノ通被定候条此旨布告候事、但明治三年庚午五月 被定候陸軍国旗並ニ大隊旗嚮導旗等被廃候事」)によってである。これによって歩兵連隊なら縦2尺6寸4分(約80cm)、横3尺(約90.9cm)、騎兵・砲兵連隊なら縦横2尺1寸(約63.6cm)のサイズで、旭日旗に紫の総のついたものとなった。したがって授与されはじめてから後に制定されたため、上記で近衛歩兵第1、第2聯隊に親授された軍旗はそれとは異なり、総は無かった。

しかし、どの聯隊にも授けられたのかというとそういうわけではなく、歩兵連隊と騎兵連隊だけであった。当初は砲兵連隊にも授与される予定であったが1885(明治18)年に取り止めとなった。

軍旗は終戦までに歩兵連隊に409旒、後備歩兵連隊に57旒、騎兵連隊に31旒が親授された。