兵種の一つ。
戦闘法としては、相手の騎兵と馬上同士で軍刀もしくは槍(槍騎兵)でもって戦ったり、時には歩兵部隊や砲兵部隊に切り込んだりもした。また、その高い機動力を生かして、正面突撃だけでなく背背に回り込んでの攻撃や追撃戦で活躍した。あるいは、状況によっては馬から下りて歩兵と同じように戦い、移動するときにのみ高機動性を生かすといった戦い方もあった。また、偵察任務もこなしていた。
中世の頃は騎兵隆盛であったが、日露戦争で火器の発達の著しくなると陰りが出だし、更に戦車が登場するとその隆盛とともに入れ替わるようにして消え去っていった。
大戦間期には高機動性という共通点から軽戦車部隊に転換していった所もあるが、今まで颯爽と馬上に身を呈していたところから薄暗く油まみれとなる車内に閉じ込められた兵士達からは非難轟々であった。また、依然として戦車の真の能力は理解されていなかった上に自らの存在が消滅するような戦車を幅広く受け入れることなど騎兵に出来ようはずも無く、第二次世界大戦に突入した時点でも騎兵が幅を利かせている軍隊が存在していた。例えばポーランド軍がそうであった。ポーランドは独立して間も無くであり、また独立時に戦争を行なったことから国内は疲弊しており、機械化を進めるゆとりなど無かったという側面もある。ドイツのヒトラーのダンツィヒ・ポーランド回廊割譲要求にポーランド側が強気であったのは自軍の騎兵能力に自信があったからであった。イギリス、フランスとの同盟は駄目押しに過ぎない。その結果、第二次世界大戦勃発時に行なわれたポーランド戦役において、ドイツ軍の戦車に突撃を行ない死体の山を築くポーランド騎兵隊の姿が散見された。
こうして騎兵部隊は第二次世界大戦の終結と共に完全に各国から消滅したが、伝統ある部隊の場合、中身は軽機甲師団などの軽快部隊であるが名称だけ残してある場合もある。
世界では第一次世界大戦頃までは騎兵師団が盛んに作られていたが、日本陸軍にはついに一度として騎兵師団は作られなかった。これは日本には騎馬がおらず、その育成には時間と経費がかかったが、それが十分満たされる前に戦車に取って代わられたからである。例えば、日清戦争時には全部で7個大隊しかなく、日本騎兵のパイオニアである秋山好古率いる第一騎兵大隊以外には活躍の場は無かった。日露戦争時においては秋山の努力もあり、54個中隊にまで拡充されていたが、それでもロシアが満州に送り込んできた212個中隊と比較するとわずか1/4でしかない。そして、上述の通り。世界の趨勢的には騎兵が活躍したのはその日露戦争が最後で、以降は衰退の一途をたどったのであるがそれは日本においても例外ではなかったのである。師団に付属する騎兵連隊も第一次世界大戦終結後から自動車や装甲車中隊と騎兵中隊からなる捜索連隊となり、機械化が進んだ師団では騎兵中隊の存在しない装甲車隊や戦車隊となっていった。日本陸軍は機械化が遅かったが、それでもそのままあと5年もあれば騎兵部隊は全軍から姿を消したであろう。結局の所、最後まで温存された昔ながらの騎兵部隊は騎兵第4旅団だけだったのである。