新しい歴史教科書をつくる会

読み:あたらしいれきしきょうかしょをつくるかい
品詞:団体組織名

新しい歴史教科書」を作り、歴史教育を根本的に立て直すことを目的に作られた任意団体である。通称は「つくる会」。

様々な人が参加したが、皆揃って協調性が無かったため、やがて分裂した。

この教科書が作られるまで、戦後の日本の歴史教科書は「自虐史観」に偏り、ろくなものが存在しなかった。

共産主義を礼賛し否定的なことは書かず、資本主義は誉めずに批判的に説明する。その上、旧敵国(支那朝鮮)のプロパガンダ(宣伝)をそのまま事実であるかのように記述するようでは、日本の教科書として失格である。

日支鮮で歴史教科書の問題が起こったこともあり、新しい教科書を作るべく立ち上がったのがこの団体であった。

教科書

結果として出版されたものは、次の通りである。

攻撃

「まともな教科書」を作るべく様々な人々が参加した。

戦後日本に初めて登場した「まともな教科書」ということで、その普及を何としても阻止すべく、過激派が猛攻撃を掛けた。

つくる会への直接攻撃としては、2001(平成13)年8月8日につくる会本部への放火事件がある。2001(平成13)年8月10日毎日新聞社などに犯行声明が届けられ、警視庁公安部は文面から過激派「革労協狭間派」反主流派のものと見ている。

また、この教科書を採用しようとする自治体に対し「殺す」(意訳)という脅迫を続け、教科書採用に恐怖を与えることで、結果シェアは0.047%と大惨敗となった。

分裂

大きすぎる組織というのは、概ね成功しない。つくる会も参加者が増えるにつれ、内部で不協和音が響くようになり、もって分裂した。「自称」保守の親米派、岡崎久彦がアメリカ寄りの記述に書き直したことが、西尾幹二と八木秀次の亀裂の主因であった。

かくして、正しい保守主義のエッセンスについては、八木秀次が代表となる、分裂先「日本教育再生機構」に引き継がれることになった。

そして出版社の扶桑社の対応である。つくる会に残った西尾幹二、藤岡信勝、そして新しい歴史教科書をつくる会東京支部の異常ぶりに対し、扶桑社も遂に愛想が尽き、つくる会に絶縁を言い渡した。

扶桑社とつくる会

日本共産党や中核派など反対派の過激派は「扶桑社の教科書」と呼ぶため、扶桑社とつくる会が同等、またはつくる会が扶桑社の下部組織と扱われる節もあるが、実際には全くの別組織である。

扶桑社は、教科書の版権を持っていただけであり、あくまで収入のために本を出版していたに過ぎない。実際に本を作ったのはつくる会である。

しかし、過激派による徹底した妨害の前に満足な収入は得られなかった。これでは扶桑社としても、社員を納得させることは困難と見られた。

その上、西尾・藤岡は扶桑社に敵意むき出しであり、更にどうみても保守の恥さらしで、これでは扶桑社としても付き合いきれない。かくして、残念ながら扶桑社には切られることになった。2007(平成19)年5月17日に扶桑社における交渉で決裂し、つくる会は次回以降、別の出版社から刊行せざるをえなくなった。2007(平成19)年9月7日に、つくる会は次の歴史と公民の教科書を「自由社」から出版すると発表した。

ライバル

扶桑社が次回の教科書執筆者に選択したのは、八木秀次率いる日本教育再生機構であった。3億円を投資し別会社「育鵬社」をつくり、これまでの問題だった教科書事業の採算がどういうものなのかを明確にすることにした。そして、2007(平成19)年7月24日、「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会」(教科書改善の会)が発足した。

そもそも、元の優秀な人材は「日本教育再生機構」に引き継がれてしまった上、あちらには現政権中枢に近い人たちが多数参画協力している。八木秀次は安倍晋三内閣総理大臣のブレーンでもあり、採択率が上がる事は確実と見られている。

従って、今のつくる会が扶桑社から切り捨てられるのは当然で、思想云々ではなく単に営業的な見地から見ても当然の結論と言えた。これは、保守派ならびに、かつてつくる会を支持していた層であっても、ほぼ共通認識である。

今後

かくして次回は、自由社の教科書「中学歴史」と、育鵬社の「まだ名前も決まっていない教科書改善の会の教科書」の二冊が、他社のサヨク教科書と対決することになる。

なお、「新しい歴史教科書」の名の権利は育鵬社にあるため、つくる会はこの名を使うことはできない。

但し、両者は喧嘩するべきかと言えばそうとは言えず、つくる会も、日本教育再生機構も、目指すものは基本的に差は無いはずだからである。

強いて違いを挙げるとするならば、つくる会は親米的であり、日本教育再生機構は反米である。