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本能寺の変
辞書:文化用語の基礎知識 戦国時代編 (LHMIDAGE)
読み:ほんのうじのへん
品詞:固有名詞

1582年6月21日(天正10年6月2日)、武田氏を滅亡させ、天下統一を目前にした織田信長が、支那の毛利征伐に出る前に京都の本能寺に滞在していたところを家臣の明智光秀に襲われ自刃して果てるという事件。

天正10年3月(旧暦、以下同)、織田信長は武田氏を滅亡させた。5月15日、信長は長年対武田方面で共に戦ってきた徳川家康と元武田重臣で織田に降っていた穴山信君(梅雪)を安土城で接待していたが、この日備中で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉から急報が届けられた。秀吉は軍師・黒田勘兵衛の献策により、清水宗治の守る備中高松城を水攻めしていたが、これに驚いた毛利輝元が毛利軍主力を高松に向かわせたのである。この報を受けた信長は武田氏の次の主攻勢を毛利氏にかけることにし、自ら支那に向かうことを決め、家康、信君の接待・饗応役をやらせていた明智光秀を先陣として派遣することを決めた。

5月17日、接待の役目を終えた光秀は居城・坂本城に戻り、支那出陣の準備に取りかかった。26日、丹波亀山城に入る。翌27日、愛宕山の愛宕大権現へ参拝し、参籠をしている。この時、光秀は御神籤を1度ならず、2度、3度と引いており、この時、信長に対する謀反を断行すべきかどうか迷っていたと言われている。28日には愛宕大権現五坊の一つ、威徳院西坊で出陣連歌が行なわれた。この俗に「愛宕連歌」と後世で言われることになる連歌会で光秀が詠んだ発句には謀反の決意が滲んでいるとされる。

一方、光秀がそのようなことを考えていることなど露にも知らない信長は5月29日、わずかの近臣を連れて安土を発って京都の本能寺へと入った。『当代記』によるとこの時従えていた兵はわずか150人だという。6月1日、信長は本能寺の書院で茶会を催している。この茶会は、博多の豪商島井宗室を正客とし、信長秘蔵の名物茶器を披露するのが目的だったので、わざわざ安土からたくさんの名物茶器を運ばせている。運び込まれた茶器は九十九茄子、珠光小茄子、紹鴎白天目、小玉澗の絵、蕪なしの花入、宮王釜など、三十八種にも及んでいた。茶会のあと酒宴となり、信長の長子・織田信忠が宿所である妙覚寺に戻ったのは四ツ半(11時)になっていた。信長は、さらに寂光寺の日海(後の本因坊算砂)と鹿塩利玄との囲碁の対局を観た後、1時過ぎに床に就いた。この碁は不吉な三劫であったとされる。

6月1日、光秀は申の刻(午後4時〜5時ごろ)、突然物頭クラスを召集し、信長が明智の陣容・軍装を検分したいの書状が森蘭丸から届いたと説明して、準備ができ次第出発するので直に準備に取りかかるよう命じた。1万3千の軍勢は準備が出来たものから順次亀山城より出陣を開始した。午後8時〜9時頃、亀山の東の条野のあたりで軍勢を整えると、光秀は篠八幡宮で明智秀満斉藤利三溝尾庄兵衛藤田行政明智光忠ら重臣に謀反を打ち明けたと言われている。午後10時〜11時頃、老ノ坂のを越え、12時頃沓掛に到着した。沓掛は京都への道と西国への道との分岐点である。よってここから先は光秀の独行になるので、信長にこの光秀軍の動きを通報する者がいないかの監視のために、安田国継に先遣隊を組織させている。6月2日午前2時頃、桂川畔に到着。ここで光秀は馬の沓をはずし、鉄砲に火を入れ、新しいわらじ・足半に替えさせている。これは臨戦態勢に入ることを意味し、閲兵式にしてはおかしいと兵の中に動揺があったためか、光秀もこれ以上は隠し通せないと判断し、桂川を全軍が渡河し終わったところで、信長への謀反を告げた。この台詞が「敵は本能寺にあり」である。

光秀の軍勢が本能寺の包囲を完了したのは午前4時である。一般には夜中に襲撃が行なわれたように描かれているが、実際には夜が白みかけてくる頃であった。これは夜戦だと味方の犠牲も多く、なにより信長を打ち損じる可能性がある一方、夜が明けきると襲撃が露呈してしまうことを恐れての光秀の緻密な計算によるものとされている。『本城惣右衛門自筆覚書』によると「人数の中より馬乗り二人いで申し候、誰ぞと存じ候へば斎藤内蔵介(助)殿子息、小姓共に二人本能寺の方へ乗り被申候(中略)それ二人は北の方へ越し申し候。我等は南の堀きわへ東向きに参り候(中略)三宅弥平次様、幌の衆二人北の方より入り(申し候)」とあり、斎藤内蔵介(利三)が南、三宅弥平次(明智秀満)と斎藤利三の子が北から本能寺の突入したとみられる。

『兼見卿記』や『言経卿記』によると本能寺で死んだ信長側の人間は7、80人らしいので、信長が安土城より引き連れてきた兵の数を見てもこの時本能寺には100人前後しか居なかったと見られる。光秀軍が襲撃を開始したとき、信長は熟睡していたが騒ぎで目を覚ましたという。ただし、フロイスの『イエズス会日本年報』によると顔を洗っていたところだという。信長は初めこの騒ぎは家臣たちの喧嘩によるものと考えていたが、やがて鬨の声があがり、鉄砲を撃つ音が聞こえたため、誰かの襲撃であることを悟ったという。森蘭丸の「明智日向守殿謀反!」の声に対し、信長がどう反応したかは「是非もなし」と「なぜ」の二説あり、前者の場合どういう意味であったのか諸説がある。この時、光秀の兵が信長を発見。その背中に矢を放った。信長はこの矢を抜いて、薙刀をとってしばらく戦っていたが、いかんせんあまりもの多勢に無勢に押され、腕に銃創を受けて部屋に入り戸を閉じてしまう。このあと本能寺は火に包まれてしまい、信長がこののちどうなったのかは、ようとして知れない。

一方、この頃信忠のもとには京都所司・村井貞勝から本能寺が光秀に襲われているとの急報が入っていた。信忠の居た妙覚寺は本能寺から北北東に1kmほどの距離であったので、信忠は500の手勢を率いて直ぐ様本能寺へと向かったが、圧倒的多数の光秀の兵に遮られたため、これを断念せざるをえず、信忠は二条御所へと入った。光秀の軍勢が本能寺の囲みを解いたのは午前8時頃とされている。光秀軍は囲みを解くと直ぐ様二条御所の襲撃に取りかかった。このとき二条御所には誠仁親王がいたので信忠は光秀に親王の救出を要請し、光秀もこれを了承。誠仁親王は午前10時頃二条御所を出ている。それから本格的な戦闘となり、結局二条御所も落ち、信忠は自刃した。またこの戦いで光秀の従弟の明智光忠が負傷している。

こうして光秀の謀反は一応成功した。信長残党の探索が一段落した後、光秀は勝竜寺城に京都の押さえとして家老の溝尾庄兵衛を残し、自らは軍勢のほとんどを引き連れて安土城へと向かった。信長の家臣たちと信長と敵対していた諸大名に協力を要請するためには安土城を抑える必要があったのである。しかし、安土城に入るには避けて通れない瀬田橋を守将・山岡景隆が落としてしまったため、それより先に進むことが出来ず、結局、光秀はひとまず自分の居城である坂本城へと入った。瀬田橋の復旧を待って安土城に入城を果たしたのは、3日も経った6月5日であった。光秀のケチのつけはじめである。一方、秀吉が支那大返しを開始するのはその翌日6日のことであった。

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