ニールス・ボーア

読み:ニールス・ボーア
外語:Niels Henrik David Bohr デンマーク語
品詞:人名

1885(明治18)〜1962(昭和37)。コペンハーゲン生まれのデンマーク人の物理学者。コペンハーゲン大学で水の表面張力の研究をし、1906(明治39)年にデンマーク科学アカデミーの金メダルを受賞。さらに1911(明治44)年には金属中の電子の振る舞いを説明する理論で博士号を取得した。

大学卒業後イギリスに渡り、J.J.トムソンに師事し、ついで1912(大正元)年にはラザフォードに師事。4か月後にはコペンハーゲン大学に講師として戻る。翌1913(大正2)年には "ボーアの原子模型の理論" 発表。1916(大正5)年にはコペンハーゲン大学理論物理学教授に就任。1920(大正9)年にはコペンハーゲンにボーアのために理論物理学研究所が設立され、その所長に就任した。

1921(大正10)年に元素の周期律の理論を、1922(大正11)年にはさらにそれを練り上げたものを発表し、その功績に対してノーベル物理学賞が授与されている。また、元素の周期律の理論で予測した新元素がボーアの研究所で発見され、これはハフニウムと命名されている。

1927(昭和2)年に量子力学の基礎概念としての相補性原理を発表。

また、アインシュタインと激しい論争を繰り広げたことでも有名で、1927(昭和2)年にブリュッセルで開かれたソルヴェイ会議以降、何度も議論が繰り返され、1933(昭和8)年、彼はローゼンフェルトと共同で電磁場に関した量子電気力学的測定が不確定性原理と矛盾しないことを発表した。

1930年代に入って、核反応に関心を持ち、1936〜37(昭和11〜12)年には核反応に関する複合核の理論、1939(昭和14)年には液滴模型による核分裂の機構についての諸研究を行なっている。第二次世界大戦が勃発しデンマークがドイツ軍に占領されるとレジスタンス運動に積極的に参加、1943(昭和18)年にスウェーデンに脱出し、さらにアメリカに渡って原子爆弾製造計画を助けた。

戦後は核兵器を国際的に管理することを提唱し、1952(昭和27)年、スイスのジュネーブにあるヨーロッパ連合原子核研究機関(CERN)の創立に助力、北欧理論原子物理学研究所(ノルディタ)の創立も助け、1957(昭和32)年には最初の原子力平和利用賞を受賞している。

現在、原子番号107のボーリウムに彼の名が冠されている。

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