第百二十三代天皇陛下。
- 御名 ‐ 嘉仁(よしひと)
- 続柄 ‐ 明治天皇第三皇子
- 母神 ‐ 柳原愛子(なるこ) (側室)
- 誕生 ‐ 1879(明治12)年8月31日
- お印 ‐ (不明または無し)
関連する時代背景等も含む。
- 1879(明治12)年8月31日: ご誕生
- 1889(明治22)年: 立太子礼
- 1894(明治27)年: 学習院中退、赤坂離宮での教育に移行
- 1900(明治33)年5月10日: 結婚の儀
- 1912(大正元)年7月30日、明治天皇崩御、践祚(せんそ)され天皇に即位、同日大正に改元
- 1914(大正3)年6月: サラエボ事件から第一次世界大戦が開戦
- 1915(大正4)年: 即位の礼(京都御所)
- 1919(大正8)年: この頃より病状悪化
- 1921(大正10)年11月25日: 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任
- 1926(昭和元)年12月25日: 大正天皇崩御
- 1927(昭和2)年2月8日: 陵墓である多摩陵に葬られる
- 1927(昭和2)年9月13日: 大正天皇大喪儀1日目
- 1927(昭和2)年9月14日: 大正天皇大喪儀2日目
江戸城(東京城)
父神は明治天皇(睦仁天皇)、母神は柳原愛子(明治天皇の典侍)。
皇后は節子(さだこ)、後の貞明皇后(ていめいこうごう)。
結婚前は、公家である九条家、九条道孝の四女、九条節子(くじょう さだこ)。
子宝に恵まれたため大正天皇に側室はなく、全て皇后により4柱の子があった。
- 迪宮裕仁親王 (後の昭和天皇)
- 淳宮雍仁親王 (後の秩父宮)
- 光宮宣仁親王 (後の高松宮)
- 澄宮崇仁親王 (後の三笠宮)
大正天皇 | (父)明治天皇 | (祖父)孝明天皇 | (曾祖父)仁孝天皇 |
(曾祖母)正親町雅子 |
(祖母)中山慶子 | (曾祖父)中山忠能 |
(曾祖母)松浦愛子 |
(母)柳原愛子 (典侍) | (祖父)柳原光愛 (公家) | (曾祖父)柳原隆光 |
(曾祖母)正親町三条則子 |
(祖母)歌野 | (曾祖父)長谷川雪顕 |
(曾祖母) |
陵墓は多摩陵(たまのみささぎ)。
場所は東京都八王子市長房町で、形状は上円下方墳である。後の昭和天皇の陵墓である多摩御陵の西に位置する。陵が東京に移されたのは、大正天皇からである。
東隣に、貞明皇后の陵である貞明皇后多摩東陵がある。
現在は大正天皇を祀る神社は特にない。
ただし、全ての天皇は宮中三殿の一つ、皇霊殿に祀られている。
文系の天皇である。幼少より病弱だったとされ、1894(明治27)年に学習院を中退するが、赤坂離宮での教育に移行した際に漢詩に触れ、以降漢詩を嗜むようになった。大正天皇は数多くの御製を残しているが、和歌の倍以上の漢詩を残したことで知られる。
結婚を機に病状が回復し、全国を巡幸した。率直な事を口にする、気さくな性格で、巡幸中も臣民に気軽に声を掛けたという。この性格を疎んだ側近は、陛下を「頭が弱い」などと罵ったとされる。
第一次世界大戦勃発後の晩年に天皇に即位、以降は公務の心労から再び病状が悪化した。皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)が摂政に就任後は事実上の上皇となって以降は静養、そして1926(昭和元)年12月25日01:25(24日@725)、葉山の御用邸(現・しおさい公園)にて、皇后の計らいにより呼ばれた実母・柳原愛子の手を握り、心臓麻痺にて崩御あらせられた。
122 明治天皇 ‐ 123 大正天皇 ‐ 124 昭和天皇
用語の所属

神道

天皇