東京都千代田区にある神社。最寄り駅は九段下、市ヶ谷、飯田橋。
入口に立てられた社号標には「靖國神社」と書かれているが、常用漢字にない字が含まれるため、日常的には靖国神社と書かれている。
1869(明治2)年、戊辰戦争で斃れた人たちを祀るために明治天皇の思し召しによって創建されたとされる。
創建当時は東京招魂社と呼ばれたが、1879(明治12)年に靖国神社と改称され今日に至る。
戦前は戦勝祈念の場、国威高揚の神社であった。現在は特に大東亜戦争で、靖国で逢おうと言って散っていった約213万柱の英雄を祀るための神社となり、日本人にとって心情深い約束の場所となった。
基本的には、大東亜戦争で散華された軍人はみな合祀されている。
自分の親兄弟、ないし祖父、曽祖父などが祭神であるかどうかを調べることも可能で、希望あらば参集殿の受付へ出向き、依頼の書類を書けば、一週間程度で返事が送られてくる(無料)。
返信される書面には、次の事項が記載される。
崇敬奉賛会(有料)に入会し、書類を書けば、豪華な装丁の「祭神之記」が送られてくる(無料)。
年間参拝者は約600万人。初詣参拝者はこのうちで24万人前後とされる。
神社の広さからすれば、参拝者数は決して多いとは言えないが、それでも熱心な参拝者は徐々に増えている。
サンプルとして、靖国神社にとって1年で最も特殊な日、8月15日のおよその参拝者数を示す。この日はお盆にあたるが、平日の年もある。
参道の途中には大村益次郎の像がある。彼は長州出身で日本近代陸軍の創設者だが、兵制改革の際に反対派に暗殺された。
大村は1869(明治2)年、靖国の前身である東京招魂社の社地選定のため、ここ九段を訪れたとされる。もって靖国神社創健者の一人とされ、その功績をたたえられ、山田顕義伯爵らにより銅像建立が発議され、宮内省からの御下賜金により作製された。
彫刻師の大熊氏廣により11年の歳月を費やして作られたこの銅像は日本初の西洋式銅像であり、完成は1893(明治26)年のことだった。
夏の「みたままつり」の際には、この土台の上で「盆踊り」が催される。踊るのは「東京音頭」など。
更に参道を歩くと、右手に休憩所、左手に駐車場と売店がある。
道路を挟んで更に歩くと、左手に大手水舎があり、そして神門の手前には高さ15mの青銅大鳥居(第二鳥居)がある。この鳥居は1887(明治20)年に建立された。
神門は神社の正門であり、1872(明治5)年に建立された。門には直径1.5mの菊の御紋章が付けられている。門は夜間は閉じられ、朝6時に拝殿の大太鼓が21回打たれる中で開門される。
神門をくぐると、中門鳥居(第三鳥居)と拝殿が見える。
中門鳥居は何度か再建されている。木製の鳥居で、最近までのものは1975(昭和50)年に建立されたものだった。これも2006(平成18)年に建て替えられた。
拝殿は、本殿の手前に1901(明治34)年に建てられた殿舎で、1989(平成元)年に屋根の葺き替えが行なわれている。この社殿には常に、明治天皇の短歌(御製)が掲げられている。
拝殿前には概ねいつも参拝者がいる。変な人もたまに来るためか、大抵は警備の人が立っている。
社頭参拝は拝殿の手前で行なう。拝殿前には賽銭箱があり、ここに賽銭を投げた後、二礼二拍手一拝の一般的な作法で拝礼を行なう。
本殿への昇殿参拝の際には、一般人の場合、参集殿からこの拝殿内に入り、お祓いを受けた後で本殿へと脇の回廊を歩いてゆくことになる。
政治家などの偉い人の昇殿参拝の場合は、参集殿の隣の到着殿から中庭を歩き、本殿正面の階段を登ってゆく。
なお、天皇陛下にあらせられては、参道からまっすぐお歩き頂くことになる。つまり、拝殿前の賽銭箱は撤去され、拝殿の階段を上がり、中庭に降り、そして本殿正面の階段をお上がりいただくことになる。お帰りの際はその逆となる。
本殿は1872(明治5)年の建造で、昭和の終わり頃に大修復が行なわれた。
拝殿が作られる前は本殿のみだったためか、神社建築としてはかなり大きなものとなっているのが特徴。
本殿の奥には1972(昭和47)年建造の霊璽簿奉安殿がある。これは一般には参拝できない社殿である。耐震・防火・防湿設計の、鉄筋コンクリート造の建物とされている。中には、和紙に記された祭神の名を綴じた「霊璽簿」2000冊余りが納められている。
本殿と靖国通りの間には二つの境内社がある。一般者は参拝できない。
本殿側が元宮で、道路側が鎮霊社である。
元宮は京都に建てられた小祠で、幕末に倒れた46柱の志士を祀ったものだった。これが1931(昭和6)年に靖国神社に奉納され、靖国の起源となった神社として祀られている。
鎮霊社は、全世界の戦没者を祀る神社で、1965(昭和40)年7月に創建された。
月次祭は毎月1・11・21日、永代神楽祭は毎日(ゆかりの日)執り行なわれる。
神社は「英霊を祀る」のが目的である。英霊には、感謝、慰霊、顕彰を行なう。
国家の命じた義務を命掛けで遂行し、国民の命を守った軍人やその関係者の霊を厚く弔い、感謝と尊敬、そして顕彰をすることを目的としている。
彼ら戦死者は一般の戦争被災者と違い自ら進んで戦地に赴く。その感謝を国がする。もってその国は独立国家として成り立つわけである。
国、国体を守るために散った方々の霊を英霊という。つまり戦死者に対する尊敬語である。
「私の命一つで国が助かるのなら、ぜひ使って下さい」という謙譲の美徳を持った方々が、ここに英霊として祀られている。
靖国神社は神社なので、神道に基づく神事や祭が催される。また桜の名所である靖国は、桜の季節には参道に人が殺到し、特設の花見会場も用意される。
しかし年間でたった一日だけ、他の日と明らかに雰囲気の違う特殊な日(異常な日)がある。それが8月15日「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」、つまり大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)停戦のためのポツダム宣言を受諾した日の翌日、昭和天皇の玉音放送のあった日である。
8月15日は神道にとって特別に意味がある日ではないため、神社も特別な神事は催していないが、この日は先祖の霊を弔おうと全国より参拝者が殺到する。参道には特設テントが立てられ日本会議主催「戦歿者追悼中央国民集会」が催される。
ちなみにこの日、神社周辺には各地より「街宣右翼」が集結して騒動を起こすため、最寄り駅(九段下)の中や外周辺や、神社の周辺には「機動隊」が大勢待機している。九段下駅から神社までの九段坂では、いろんな団体がチラシ配りに精を出している。
この、いつもと明らかに違う空気が楽しめるようになれば、恐らく靖国通である。
靖国神社は「国体護持のための神社」だったため、戦後は常に、国体破壊を目論む国内外の者達の攻撃対象となってきた。
朝日新聞が火の無い所に放火するまで。
天皇陛下の御親拝があれば、英霊の方々にとっても大変な喜びとなろうことは自明である。
戦後(1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効以降)だけでも、7回の御親拝があった。GHQ統治下の1回を含めれば8回である。
しかし1975(昭和50)年11月21日の昭和天皇皇后両陛下の行幸を最後に御親拝は途絶えており、春秋の例大祭には代わりに勅使(天皇の御名代)が参向している。
これは1975(昭和50)年8月15日に三木武夫首相がいわゆる「私的参拝」をしたことが国会でも取り上げられ、政治問題と化したことに由来する。憲法上、政治に関れず、また私的な行為も不可能な天皇陛下からは、御親拝を仰ぐことが出来無くなってしまったからである。
国家のために散った方々が祀られていることから、総理大臣が正装で参拝すべき神社とされる。
神社なので、基本的には4月の春季例大祭と10月の秋季例大祭に参拝するのが一般的だが、8月15日に参拝すると更に良いとされる。
戦後、歴代総理の靖国神社参拝実績(14総理)は次のとおり。
強調されている日付は、支那や朝鮮からクレームが入った参拝を表わす。
このうち、8月15日に参拝した実績は次の9回、5総理である。
戦後、歴代総理29名(現役である福田康夫を含む)の中で靖国神社参拝をしていない者は次の15名。任期を併記する。