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昭和天皇

読み:しょうわてんのう
外語:Shōwa tennō , Emperor Showa
品詞:名,@神仏
2005/10/23 作成
2008/06/24 更新

第百二十四代天皇陛下。

情報

  • 御名 ‐ 裕仁(ひろひと)
  • お続柄 ‐ 大正天皇第一皇男子
  • 誕生日 ‐ 1901(明治34)年4月29日
  • ご称号 ‐ 迪宮(みちのみや) (正確には迪は辶由)
  • お印 ‐ (不明または無し)

血液型はAB型Rh(−)だったとされる。

御略歴

関連する時代背景等も含む。

  • 1901(明治34)年4月29日: ご誕生 (東京・青山の東宮御所にて)
  • 1912(大正元)年7月30日: 皇太子となる
  • 1916(大正5)年11月3日: 立太子の礼
  • 1919(大正8)年5月7日: 成年式(18歳)
  • 1921(大正10)年11月25日: 皇太子摂政就任
  • 1924(大正13)年1月26日: 結婚
  • 1926(昭和元)年12月25日: 大正天皇崩御践祚(せんそ)され天皇即位された
  • 1926(昭和元)年12月25日: 東京日日新聞(現、毎日新聞)、新元号を「光文」と誤報する
  • 1928(昭和3)年11月10日: 即位の礼
  • 1928(昭和3)年11月14日、15日: 大嘗祭(天皇が即位して最初に行なう新嘗祭)
  • 1941(昭和16)年12月8日: 真珠湾攻撃(大東亜戦争対米戦の開戦)
  • 1945(昭和20)年8月14日: ポツダム宣言受諾(大東亜戦争停戦)
  • 1945(昭和20)年8月14日: 上同日、天皇の玉音盤録音
  • 1945(昭和20)年8月15日12:00(@166): 玉音放送
  • 1946(昭和21)年1月1日: 天皇、神格化否定の詔書を出す。天皇人間宣言とも呼ばれているが、そのような記述は存在しない
  • 1949(昭和24)年9月25日: 天皇、初めて本を刊行する (相模湾産後鰓類図譜、岩波書店)
  • 1967(昭和42)年2月15日: 天皇、初めて自著の本を刊行する (「日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科のClathrozonidaeのヒドロ虫類の検討」、保育社)
  • 1987(昭和62)年9月22日: 歴代天皇として初めての開腹外科手術を受けられる
  • 1988(昭和63)年9月19日: 吐血し、病床に倒れられる
  • 1989(昭和64)年1月7日4時過ぎ: 危篤
  • 1989(昭和64)年1月7日06:33(6日@939): 吹上御所にて崩御あらせられる(十二指腸がん)
  • 1989(平成元)年2月24日: 新宿御苑で大喪の礼

天皇と政治

天皇は、即位早々、軍部の暴走に悩まされた。

大東亜戦争後は日本国憲法の施行により日本国と日本国民統合の象徴となり、国事行事や宮殿で行なわれる様々な式に参加される立場となられた。生前は海洋生物や植物の研究を行ない、多数の著書を残された。

神話上・伝説上の天皇を除き、歴代の中では御年並びに在位期間が最長の天皇である。また歴代天皇として初めて国民に声を聞かせた天皇でもある。

崩御の前後

陛下は腸の病を患い、1987(昭和62)年9月22日には歴代天皇としては初めての開腹外科手術を受けられた。しかし翌年1988(昭和63)年9月19日吐血、以後闘病されたが上部消化管(食道十二指腸)からの出血が断続的に発生し、胆道系炎症、閉塞性黄疸を発症、尿毒症を併発された。

1989(昭和64)年1月7日4時過ぎに危篤となり、十二指腸乳頭周囲の腺がん(腫瘍)により1989(昭和64)年1月7日06:33(6日@939)、吹上御所にて身をお隠しとなられた。崩御あらせられた天皇は、在位中の元号より昭和天皇と追号された。

大喪の礼(天皇の葬儀)は翌月、1989(平成元)年2月24日に行なわれた。この日は1989(平成元)年2月17日に交付・施行された「昭和天皇の大喪の礼の行われる日を休日とする法律」(平成元年法律第4号)によって休日となった。

皇居

吹上御所(1961(昭和36)年完成、後の吹上大宮御所)

在位中の元号

  • 昭和

父神

父神は大正天皇(嘉仁天皇)、母神は貞明皇后(節子皇后)。

皇后

皇后は久邇宮良子(くにのみや・ながこ)。

結婚前は女王で、崩御後は香淳皇后が追号された。

皇子

皇子は七柱おられる。

  1. 照宮成子内親王
  2. 久宮祐子内親王
  3. 孝宮和子内親王
  4. 順宮厚子内親王
  5. 継宮明仁親王(今上)
  6. 義宮正仁親王(常陸宮)
  7. 清宮貴子内親王

このうち明仁親王が後に天皇に即位する。

陵墓は武蔵野(みささぎ)

場所は東京都八王子市長房町から元八王子町にかけてで、形状は上円下方墳である。大正天皇の陵墓である多摩御陵の北に位置する。

最寄り駅は高尾駅(JR中央本線京王高尾線)。

現在は昭和天皇を祀る神社は特にない。

お人柄を語る逸話は幾つがあるが、その一つに薩摩の話がある。

1931(昭和6)年、鹿児島より船で帰京される時、天皇は真っ暗な海に向かい、ひとりで挙手の礼をしていた。

お付きの者は不思議に思ったが、海を見ると遠い薩摩半島の海岸で、陛下をお見送りしていたと思われる住民による篝火の列があった。天皇はそれに向かって答礼をされていたのである。

昭和天皇には7柱もの皇子がおられる。この当時は臣民にあっても子沢山が多かったとはいえ、7柱は注目すべき数である。

戦後、殆どの皇族は臣籍降下させられたことから、少なくとも昭和天皇に男子が1柱なくては皇統断絶の危機となる。しかし最初の4柱は女子だった。産まれても産まれても女子だったため、昭和天皇や香淳皇后はさぞかし不安を感じたことと思われる。

一時は臣籍降下した旧宮家からの養子も考えられたとされる。諦めずに7柱も頑張ったのはひとえに、皇室を失くしてはならないという重い責任を果たそうとする結果だったのだろう。

立憲君主として

天皇は、不本意であっても内閣や軍部の決定は認めるという、国の象徴であり立憲君主という立場を崩さなかった。昭和天皇は戦争反対派だったものの、内閣の大東亜戦争開戦決定を拒否する権利を持っていなかったために、内閣や軍部の暴走を止められなかった。

昭和天皇の下に結集して大東亜を解放する戦争を支持したのは、暴走した内閣や、それを肯定し世論を煽った朝日新聞や、それに乗った当時の国民で、そして実際にそれは正しいことではあった。だが、今も昔も御意などどこにも反映されてはいない。

大東亜戦争の敗戦はラジオ放送(玉音放送)により天皇の声によって告げられた。これは録音の放送だったが、それでも天皇の声を広く国民に放送したのはこれが初めてのことである。「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」のフレーズが有名である。

権力の行使

そんな昭和天皇が権力を行使したことが二回だけある。

一つは1936(昭和11)年の二・二六事件の時に将校らを反乱軍と名指しして事件を収束させたこと、もう一つは1945(昭和20)年の大東亜戦争停戦の際に内閣にポツダム宣言を受諾させたことである。

ポツダム宣言を受諾できたのは当時の内閣が実質的に機能停止していたからで、天皇陛下自体に権限が存在したわけではない。しかも、いずれも国民のためにやってくれたことである。

敗戦後の天皇

にも関わらず昭和天皇は停戦後、(本来はあるはずのない)責任を一手に引き受けた。天皇は戦争を止めたいと言っていたのに軍部が暴走していたわけあり、天皇は敗戦間際、戦争を継続したい軍に暗殺されそうにもなったのである。また、法律的にも戦争責任は内閣にあった。

マッカーサーと天皇

天皇が初めて会見に来た時、マッカーサーは「さっそく命乞いに来たか」と思ったが、その口から出た言葉は、彼の想像を遥かに超えたものだった。

天皇は「私は国民が戦争遂行にあたり行なった全行為に対する全責任を負う者として、私自身を貴方の代表する諸国の裁定に委ねたくお訪ねした」と述べた。つまり、自分の命の処分はお任せするので日本国民を虐殺しないで欲しいとマッカーサーの前に出頭したわけである。神々しい程のお人好し(お神好し?)であった。

マッカーサー回想記には、「私は大きな感動に揺さぶれた。死を伴うほどの責任、明らかに天皇が負うべきでない責任まで引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄まで揺り動かした。」と記されている。

GHQによる食糧支援が始まってから、昭和天皇は皇室の財産目録を用意し、代価として支払おうとされた。マッカーサーはこれにも痛く感激したが、しかし受け取りを辞退したという。

国民と天皇

また国民からも、天皇を処刑しないで欲しいという血判付きの封書がGHQに殺到するに到ったこともあり、本当は日本を占領したかったアメリカだが、日本人の反感を恐れ天皇を処罰の対象から外した。

昭和天皇は自分が死んででも国民を守ろうとしたが、戦後は自分の不甲斐なさを悔いていたとされる。このような昭和天皇の人柄(神柄?)は日本の誇りだった。戦後、昭和天皇は日本各地を行幸されたが、どこへ出かけても予想外の大歓迎を受けた。それだけ天皇と日本国民との絆は固かったのである。

今でこそ昭和天皇の戦争責任などといい、スケープゴートにして自分は善人ぶる者もいるが、陛下が希望した戦争ではなく、国民の支持や当時の国際情勢による戦争なのに、負けたからといって何の実権も無い陛下に責任を被せようという考え方は実に醜いことである。

御製

民を思う心は、昭和天皇が詠んだ和歌(御製)にも表われている。

身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもいて

自分の身はどうなっても、倒れてゆく民のため、戦いを止めたい、と詠んでいる。

しかし天皇は政治に口を出す権限が無かったことから

戦を とどめえざりし くちおしさ ななそぢになる 今もなほおもふ

戦いを止められない自分の力の無さを嘆く句も詠んでいる。

戦後の行幸

戦後の行幸により日本の復興が進んだと言われている。もし戦後退位していたら、戦後復興の効果も乏しかったとさえ言われる。

退位して那須の御用邸で隠居暮らしでもしていたほうが、昭和天皇にとっても、どれほど楽だったか知れない。しかし昭和天皇は国民が一刻も早く元気を取り戻して明るい未来へと向かえるようにとお考えになっておられたのである。

最終的に本州・四国・九州、のちに北海道(1954(昭和29)年)を行幸した。1987(昭和62)年についに沖縄行幸の予定が組まれたが、この年に腸を患って手術となったため行幸は中止、ついに沖縄へ行くことは叶わなかった。病床でご自分の死期を悟られ、「もうだめか。沖縄には行けぬか。」と言われたそうである。そして沖縄行幸を切望なされながら、遂に身を隠されてしまった。

123 大正天皇 ‐ 124 昭和天皇 ‐ 125 明仁