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1903〜1957(明治36〜昭和32)。ハンガリー出身の数学者で、ノイマン型電子計算機の理論の考案および設計者であり、ENIACの次期計画EDVACへ参加したほか、原爆の製造に関わった(爆縮の流体力学問題、爆縮衝撃波の干渉問題)、ゲーム理論の創始者、そしてセルオートマトンの研究者として人工生命(ALife)分野でも著名など、様々な分野でその名を知られている。
彼は1903(明治36)年12月3日にハンガリーのブタペストで生まれた。家庭は別荘を所有するほどの裕福さで、彼の父親が貴族の称号を買い取ったため、"von" という貴族称号が名前に入っている。
1931(昭和6)年にアメリカに移住し、プリンストン大学の数学の教授となり、続けて1933(昭和8)年に高等研究所の前身機関に属し、指導的知名人となった。1930年代から40年代初期にかけて、ゲーム理論の研究に取り組んだ。1940(昭和15)年ごろから産業界や政府のコンサルタントをするようになり、第二次世界大戦中及び戦後のアメリカ軍の新型コンピューターの設計を監督した。この仕事の中で、オートマトンの潜在的な能力に興味を持ち、特に自己再製機械問題を考えた。
ロスアラモス研究所で働いていた科学者の多くは戦後学術の世界に戻ったが、彼は政治的なことへの関心を強く持ち、殊にユダヤ系ハンガリー人であったことからソ連に対する憎しみを持つ土壌はあったが、1950年代には偏執狂に近く、"防衛のための先制攻撃" を支持するようになった。
1955(昭和30)年、転倒して肩を痛めて医者にかかったときに胃ガンに罹っていることが発覚する。この胃ガンは既に他の部位に転移しており、手の施しようの無い程になっており、結局それがもとで1957(昭和32)年2月8日に米国の首都ワシントンで、精神攪乱による軍機密の暴露を恐れた空軍が派遣した兵士が見守る中で死去した。この癌の原因は1946(昭和21)年にビキニ環礁の原爆実験視察が原因と見られている。
彼は裕福な家庭環境で育ったためか、贅沢な生活を好み、例えばロスアラモス研究所時代にはお気に入りのメキシコ料理店まで20kmもドライブし、バーボンを1Lも飲んで、平然と車を運転して帰宅したと言われる。さらに逸話として、変な状況下で仕事することがある。例えば、タクシーの中やナイトクラブのフロアショーの真っ最中に仕事をしていた。
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