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桶狭間の戦い

辞書:文化用語の基礎知識 戦国時代編 (LHMIDAGE)
読み:おけはざまのたたかい
品詞:固有名詞

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京への上洛を目指した今川義元が隣国の尾張の弱小大名の織田信長の奇襲攻撃にあって討ち取られたと言われている戦い。

海道一の弓取りと言われた今川義元は駿河・遠江・三河の三ヶ国を領有し、それまでの上総介から治部大輔になり、さらに三河守に任ぜられた。これは足利尊氏と全く同じ道程であったので、さらに次に尊氏が得た征夷将軍の地位を自らも得るがために上洛の軍を起こしたというのが通説になっているが、実際は隣国尾張へ進軍し、その一部を領有することによって三河支配を強固にし、「三河守」の名を名実共に貫徹させるというのが目的であった。

永禄3年5月10日(新暦1560年6月3日、以下旧暦)、先鋒として遠江の井伊直盛が出陣し、次いで12日に義元の本隊が駿府城を出発。16日に本隊が岡崎に到着したときには既に先鋒は知立(ちりゅう)に達しており、翌17日には本陣をその知立に、18日には沓掛(くつかけ)に陣を進め織田軍との本格的戦闘に入った。

ところで、この時の両軍の兵力であるが、まず今川軍は、参謀本部編の『日本戦史』の「兵員総計およそ二万五千。号して四万と称す」が現在の通説となっているが、『信長(しんちょう)公記』では四万五千、『北条五代記』では二万五千とかなり開きがある。しかしながら、一方の信長は尾張のそれも一部しか領有していなかったのであるから動員できるのは五千ほどで、それも各地に手兵を置かねばならない関係上今川軍への迎撃に出せたのは精々二千程度である。したがって、今川軍の軍勢はどれを信用しても織田軍の十倍以上の大軍であり、ある意味今川軍の軍勢がいくらだったのかというのは殆ど意味が無いという話もある。

緒戦では別動隊となっていた松平元康(後の徳川家康)が石川家成、酒井忠次を先鋒として佐久間盛重守る丸根砦を落とし、やはり別動隊の朝比奈泰能が飯尾近江守・織田隠岐守の守る鷲津砦を落とし、気勢を上げた。しかし、それら緒戦での勝利が今川軍に、兵力差ゆえにあった気の緩みを助長させてしまっている。

その頃本隊は沓掛を出陣し、大高城へ進軍の途中で桶狭間の中の田楽狭間付近で休憩を取っていた。一方の信長は熱田神宮で隊列を整えた後、善照寺砦に進軍。そこに留まっているように見せかけておいて、地の利を生かして大きく迂回し、今川軍の義元の居る中央部に脇から奇襲攻撃をかけたが、「狭間」というの名前から分かるように前後に長く伸びた陣となっていた今川軍は数の利を生かせず、かえって混乱する中、義元の首を取られてしまったというのが通説になっている。しかし、最近の研究では織田軍は迂回せず、善照寺砦から中島砦を経て今川軍の正面に出たということが判明している。ここで今川軍は前記のように前後に長く伸びていたため、正面攻撃でも同時に戦闘に参加できる人数が限られ数の優勢を生かせないばかりか油断から撃破され、やがて義元の首を取られてしまったというのが実話のようである。

このような奇襲論は江戸期の俗書である小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記(しんちょうき)』あたりから出だしたものであり、同時代の信頼できる書物である太田牛一の『信長公記』には迂回攻撃についての記述は全くない。

また、通説では今川義元は化粧をしていたとか、肥満していたため行軍の途中で何度も落馬したとか、奇襲を受けたときには初夏の暑さで鎧を脱いで、酒宴を開いていたとか散々なことを言われているが、これらは後々に信長を際出せるために押し付けられたものであり、実際のところは槍で刺されながらも相手(服部小平太忠次といわれている)の膝を太刀で断ち割り、首をかこうとした相手(毛利新介良勝といわれている)の指を噛み切るという執念を見せている。

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