151系

読み:ひゃくごじゅういちけい
外語:Series 151 英語
品詞:名詞

国鉄が製造した特急形電車。1958(昭和33)年運転開始。最初にこの車両が使われた特急の名前からこだま形とも呼ばれる。

落成当時の形式称号は20系であった。

目次

  • 動力
    • 電気方式: 直流1500V
    • 集電装置: PS16A
  • 車両性能
    • 最高速度: 120km/h(288km/hBeat)
    • 営業速度: 110km/h(264km/hBeat)
    • 加速度: 1.3km/h/s
  • 車体
    • 全長:
      • 制御車 ‐ 21000mm
      • 中間車 ‐ 20000mm
    • 全幅: 2946mm
    • 全高: 3350mm
    • 台車(M): DT23、DT23Z
    • 台車(T): TR58、TR58Z
  • 駆動機構
  • 編成
    • MT比: 1:1
      • 基本編成 ‐ 4M4T(12両化後は6M6T)
  • 保安装置
    • ATS-S (落成当時はなし)

背景

このころ、大東亜戦争により荒廃した線路設備の復旧がほぼ終わり、東海道本線においては全線電化が完成した(1956(昭和31)年)。これにより、東海道本線の特急は電気機関車牽引とされ、つばめおよびはとは東京〜大阪間を7時間半で走破するようになり、戦前の特急の水準をついに上回った。

国鉄では引き続いて老朽化資産一掃、動力近代化、輸送力の増強をめざし第一次5ヵ年計画を策定(1957(昭和32)年)した。

第一次5ヵ年計画の中には当然ながら車両の近代化計画も存在していて、老朽化した鉄道車両の大量更新と輸送力増強のための大量増備が行なわれることになっていた。この頃は新性能電車、新性能機関車、新型気動車などが次々に開発されていた。国鉄としても次世代の車両の動力形式について主に何を採用するか様々な検討が行なわれていた。

特に電車に関する研究は盛んであり、モハ90形(101系)電車や小田急SE車を利用した高速度試験が盛んに行なわれていた。これは当時の国鉄技師長であった島秀雄の意向が大きいとされている。

繰り返された試験の結果、電車であっても連続長距離走行は可能であり、当時の最新技術であった空気バネを利用すれば乗り心地に関しても申し分ないという結論に達した。

そのため、東海道本線に新しい特急を新設するという話が出てきたときに、その車両に電車を採用するという方針が立てられたのである。

特徴

これまでに存在しなかった電車特急の製造ということで、当時の最先端の技術が惜しみなく使われている。ベースはモハ90形電車(101系)であるが、元が通勤形電車である雰囲気はまったく感じられない。

車内設備

車内設備は当時の水準の遥か先を言っていたといってよい。

  • 全車冷暖房完備
  • 照明は全面的に蛍光灯を利用
  • 窓は固定窓とし、二重ガラスを採用
  • 台車に空気バネを利用する
  • 振動防止のために浮床構造とする

151系で始めて採用されたものには以下のようなものがある。

  • 車両無線機
  • 車内電話
  • 車内速度計
  • エアタオル (松下製)
  • 電気湯燗器 (東芝製)
  • シートラジオ(2等車のみ)

後の増備車では以下のような装置も登場した。

  • 冷水器
  • 電子レンジ
  • 電気オーブン
  • 電気冷蔵庫
  • デッキと客室間の自動ドア
  • 列車位置表示装置
  • 粉砕式汚物処理装置 (トイレ)

当時の最先端を髣髴させる設備が整っている。たとえば、全車冷房車というのは現在では当然のことであるが、1958(昭和33)年当時は職場にもクーラーが存在しないのが当たり前の時代であった。

外観

151系電車の外観は、当時のどの列車とも違うきわめて独特な形状をしていた。この形状は現在まで続く日本の電車特急の始祖とも言うべき形状である。カラーリングは後に国鉄の特急色の基本となるクリーム色4号と赤2号の2色塗り分けである。

その洗練された姿は世の話題を独占したようで、お伽の国の電車と評された。

また、このときに特急の前面に飾られる特急マークや、JNRのロゴマークも定められた。これらは公募によってデザインが決められている。

空前の人気とその後

東海道線特急の151系化

151系は東京〜大阪間を6時間50分(後に6時間30分)で走破し、その車内設備の豪華さも手伝って絶大な人気を得ることになる。そのため、東海道本線の特急列車はすべて151系を利用することが決定され、特急はと、特急つばめなどが151系に置き換えられた(1960(昭和35)年)。

客車のつばめ、はとは一等車(展望車)が連結されていたが、電車ではそのような設備は用意できなかった。そのため、車内設備を特別に豪華にしたパーラーカーが登場した。その豪華さは現在では伝説となっている。

需要が非常に多いことから8両編成から12両編成に車両が増備され、同時に食堂車も連結されてまさしく特急列車にふさわしい風格を得たとされる。

逼迫する東海道本線

1961(昭和36)年ダイヤ改正(サンロクトオ)で東海道本線にダイヤの限界を超えたといっていいほど列車を設定したが、それにもかかわらず東海道本線の特急列車の平均乗車率が94%になってしまった。

この事実を基に国鉄は東海道新幹線の早期開業を大きく訴えることになる。

新幹線へのバトンタッチ

1964(昭和39)年に東海道新幹線は無事に開業した。それと共に東京〜大阪間の優等列車は大幅に削減され、151系は東海道本線から姿を消すことになる。東海道線での活躍はわずか6年であった。

151系が最後に東海道本線を走ったのは東京オリンピック開催記念の特別列車オリンピアとしてであった(1964(昭和39)年10月25日)。

舞台は山陽本線に、しかし

151系電車は新大阪以西の山陽本線で新幹線接続特急として第2の人生を歩むことになる。しかし、151系は山陽本線で使われるにはいくつかの問題を抱えていた。

  • パーラーカーの需要がない
  • 出力不足で瀬野八の連続勾配を自力で超えられない
    • 上越線や信越本線への転用を考えても問題がある
  • 交流電化区間の九州への乗り入れができない

瀬野八越えは補助機関車を連結でカバーしていた。また、九州乗り入れに関しては車内のサービス電源用の電源車を151系に連結した上で交直両用機関車、交流機関車に牽引させる方式を採った。もちろんこのような運用は不便であるため早々に対策がなされることになる。

交流区間に乗り入れる列車としては481系電車が登場し、九州地方に直通する列車はそれに置き換えられた。

出力不足に関しては151系をベースにモーター出力を向上させた181系が登場することで解決した。既存の151系は181系に改造されたが、この際に需要がなかったパーラーカーは普通の2等車にされてしまった。これにより、151系の形式が消滅した。

用語の所属
特急形
日本国有鉄道

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